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『野球小僧』編集部アンケート

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2012-04-10

ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて 根鈴雄次(徳島インディゴソックス)編

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏による「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」

 今回の主役は、海外のリーグを渡り歩き、最近では国内の独立リーグでプレーしている根鈴雄次選手です。根鈴選手においては、2003年春に刊行された『野球小僧』NO.14の「続々・外伝 野球に憑かれた男「絆」」~“成人”を迎えた日本大学野球部監督・鈴木博識の指導者生活20年」で、高校、大学時代のその特異な経歴が岡邦行氏による深みのあるノンフィクションとして詳しく綴られています。あれから約9年の年月が過ぎた今も、現役にこだわる野球人のレポートをお楽しみください

 前編はこちらです。

ノシ

2010年秋、大阪にて

 これより前、根鈴に会ったのは2010年の初秋のことだった。

 9月に入ったとはえ、この年の暑い夏は秋へと季節が移ろいゆくことを拒むかのように連日猛暑を記録し続けていた。おそらく世界中で最も暑い夏を迎えている大阪郊外の小さな野球場では、真っ昼間から男たちが大汗を流していた。

 「みんな上手やねえ」

 金網越しに男たちの練習風景を見ていた老人は、彼らのプレーに驚嘆の声をあげていた。この球場で週末にプレーするのは草野球の軟式チームと相場が決まっているせいか、老人は自分が覘き見ているのがプロ野球とは思わなかったようだった。100人ほどしかいない観衆からは、そう思いつかないのも無理のないことだった。

 「長崎より暑いですよ」

 九州からはるばるやって来た紺色のユニフォームに身を包んだ若い選手は、照りつける太陽を恨めしそうに仰いだ。その陽をたっぷりと吸った10段ほどのスタンドの椅子はすでに人が座るには暑すぎるほど熱を帯びている。

 同じ九州にフランチャイズを置いていた福岡レッドワーブラーズが財政難のため活動を休止したことも加わって、長崎をホームとする長崎セインツは、長距離の遠征にあらゆる面で悩まされていた。不況の中、他のチーム同様、セインツをとりまく財政状況は厳しい。さらにこの年は、四国九州アイランドリーグ(当時)は、新興のジャパンフューチャーベースボールリーグと交流戦を行い、これをペナントレースに組み入れていた。セインツは、長崎からオーナー直々に運転するマイクロバスで、初戦のナイトゲーム行われる三重まで移動。三重での試合後そのまま深夜に大阪入りし、その翌日の灼熱のデーゲームに臨んでいた。途中フェリーを使ったとはえ、ある意味アメリカのマイナーリーグより過酷な遠征である。

 「向こう(アメリカ)は、こういうのが普通なんでね。でも、こっちは四国だったり、関西だったりでしょ。三重だったら18時間くらいかかるんですよ。試合は週末だけだから、週の頭は佐世保で練習でしょ。けっこうそういうのってリズムつかめないんですよね。毎日が移動ならそれはそれで慣れちゃうんですけど」

 アメリカ独立リーグでトラベリングチーム(本拠地を持たず、ビジターゲームだけを行うチーム)を経験していた根鈴は、この年のセインツの苦境をこう語った。いくら週末の移動距離が長いとはえ、週の半分は本拠地のアパートで過ごせる日本での生活の方が楽なのではないかと思うのだが、彼の口から出たのは意外な言葉だった。

 彼のようなアメリカでのマイナー暮らしを経験していない若い選手にとっても、灼熱の西日本をバスで縦断する移動は過酷なもののようで、昨シーズン、リーグチャンピオンシップまで進んだ面影は、セインツからは失せていた。

現場とフロントとの乖離

 「そんなことじゃダメなんですけどね。気持ちの問題ですよ」

 平日は、本業の事業に携わる一方で、球団維持のために方々へ金策に走った上、週末は自らハンドルを握って遠征に帯同するオーナーは、思いのままにならない球団経営と覇気がなく前期・後期とも低迷しているチーム状況に苛立ちを隠さなかった。過酷な遠征にも「営業よりは楽ですよ」というオーナーだったが、無精髭を生やしたままのその表情からは疲労がにじみ出ていた。彼がチーム存続に一縷の望みをかけ日々駈けずりまわっている営業活動にも、現場は理解を示そうとせず、その協力に応じなかった監督の長富浩志はチームを去っていった。

 少数の観客の前での学芸会のようないくつかのセレモニーの後、試合が開始された。

 

2 米独立リーグやマイナー経験が長い根鈴でも過酷な遠征を繰り返していた、セインツ時代

 クリンナップの先頭、3番を任された根鈴の打球は力なく三遊間に転がった。若い頃よりもいくぶん体に丸みを帯びたベテランは懸命に一塁へ走ったが、ショートストップからの送球はわずかに早くファーストミットに収まる。

 「結構速いじゃないですか」という私の台詞にオーナーは、

 「彼も本気で走ればもう少し速く走れるんですけどね。今年は気がいまひとつ入ってないというか。バッティングもいまいちですね」

と、辛口の評価を下した。低迷するチームにオーナーは、気持ちが足りない、と不満を隠さな いが、長距離の移動と酷暑が、根鈴だけでなく、セインツの選手たちの体を蝕んでいるのは明らかだった。それに加えて、選手生活を続けていく上での先の見え ない不安。先の見えぬ不況の中、チームのスポンサーは思うように現れず、結局集まったのは200万円。8000万の運営費は、オーナーが苦労して築き挙げた様々な事業を投げ出しても回収できるようなものではなかった。

 「どうも(セインツは)今年限りなんですよ」

根鈴は試合前、自分の所属チームが消滅するだろうことを私の耳に入れてくれていた。現場、フロントも含めたチーム全体がこのチーム今年限りでなくなるだろう、ということをうすうす感じている。すでにチームがペナントレースから脱落した上、所属チームがなくなる可能性が高い、という現実前に、モチベーションを保てという方が、ある意味無茶な注文と言えた。

 チームは結局、先制しながら、その後の相手のミスにつけこむことができず、明らかに技量の劣る新興リーグのチームに逆転負けを喫した。根鈴は、3打席で交替し、代打を送られたが、観客もまばらなスタンドからは特段の反応もなかった。この日この球場を訪れた独立リーグの熱心なファンも、彼がかつては日本人初のメジャー野手になりかけたことを知らないのだろう。

その男、根鈴雄二は10年前、フロリダでのモントリオール・エキスポズのスプリング・トレーニングに参加した。オープン戦での好調で、大きな夢をつかみかけていた彼を待っていたのは突然の解雇通告だった。

 「日本人で左投げ左打ちっていうのはやっぱり不利なんですよ。そういう奴のポジションはやっぱり一塁か外野のスラッガーでしょ。僕とどうしてもかぶるんですよ」

と根鈴は言うが、同じ年、アリゾナのスプリング・トレーニングに挑戦したイチローは、根鈴が名乗るはずだった日本人初のメジャー野手の称号を手にし、スターダムにのし上がった。メジャーの大男たちの 持つパワーはイチローにはなかったが、走攻守全ての面においてメジャーリーガーを凌駕する技術とスピードを持ち合わせていた。メジャーリーグが日本人選手 に求めるこの「技」を根鈴は身につけることができなかった。日本人選手の多くがこれを身につける高校、あるいは大学時代、彼は少々の遠回りをしたのだ。

《続く》

2012-02-08

ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて 根鈴雄次(徳島インディゴソックス)編

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏による「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」

 今回の主役は、海外のリーグを渡り歩き、最近では国内の独立リーグでプレーしている根鈴雄次選手です。根鈴選手においては、2003年春に刊行された『野球小僧』NO.14の「続々・外伝 野球に憑かれた男「絆」」~“成人”を迎えた日本大学野球部監督・鈴木博識の指導者生活20年」で、高校、大学時代のその特異な経歴が岡邦行氏による深みのあるノンフィクションとして詳しく綴られています。あれから約9年の年月が過ぎた今も、現役にこだわる野球人のレポートをお楽しみください

 

ちょっと贅沢な草野球

 2011年12月。色とりどりのユニフォーム姿の男たちが、寒風吹きすさぶ雨上りの利根川の河川敷のグランドに集まっていた。
 「野球狂の会」。野球で身を立てるという夢をあきらめきれずに、海外の様々なリーグやや国内の独立リーグでプレーをする選手とそのOBからなる集まりである。プレーした国々を列挙したら世界地図ができてしまうほど、彼らは白球を追い続け、世界中をさまよい続けている。そういう放浪生活の中で、それぞれが互いの連帯意識を高めており、築き上げた絆は絶えることなく今も続いていた。
 彼らはかつて所属したチームのユニフォームをまとい、この冬初めてやってきた寒波の中、ある者はオフシーズンに入って初めての、またある者は、何年振りかのプレーに臨んでいた。「ベースボール・ディアスポラ」たちの集うこのフィールドで行われている「贅沢な草野球」には、どこで知ったのか、数名の観客の姿もあった。

「おい、あれ誰だよ」

 この日集まった選手たちがすべて互いを知っていたわけではない。マウンド上で小気味のいいピッチングを披露していた小柄な男に視線が集まる。オフシーズンとは思えない程切れのあるストレートと変化球のコンビネーションで現役の独立リーガーを次々に打ち取っていくその男は、すでに数年前に引退していた。
 相原雅也。草創期の四国アイランドリーグを支えたエースである。2006年には17勝で最多勝のタイトルを手にするも、NPBという夢には手が届かなかった。

「最初から長くはいようとは思いませんでしたから」

 そう微笑みながら、「プロ」生活を語った彼は、現在健康器具を扱う会社に勤めている。自分で決めた区切りの2年間をがむしゃらに走った彼は、その後、社会人クラブチームでさらに2年プレーを続けたが、ここでも後進にポジションを譲ってほしいという指導者の言葉を受けて、野球とはきっぱり縁を切った。
 31歳になるその表情からは、現役時代の勝気な影はすっかり消え失せていた。

 

根鈴雄次の存在

 相原のような、あきらめのいい男は、ここではむしろ少数派である。ベンチでは、来年のプレー先のいまだ決まらぬ若い選手たちが、あれやこれやと身の振り方について話し合っていた。
 そこには、相原の投球を注視しながら、若者たちの話に耳を傾けている男もいた。彼らよりふた回り以上大きなその体は、彼らより上位のレベルでキャリアを積んできたことを物語っている。そして男は、現役選手相手に快投乱麻のピッチングを繰り広げる相原を惜しそうに見つめていた。男の年齢は、マウンド上の投手より7つも上であった。

 根鈴雄次。四国アイランドリーグPlus・徳島インディゴソックスのスラッガーである。38歳という年齢ながら、2011年シーズンもリーグ6位の打率.344、4位の5本塁打と好成績を残し、チームの初優勝に貢献している。
 そもそも彼の姿は、NPBのスタジアムどころか、メジャーのボールパークにあってもおかしくはなかった。実際、彼はその夢の舞台にあと少しのところまでたどりついている。そして夢をあきらめきれなくて、今、自身14チームめの球団で現役を続けている。

120208nereiプレーできる場所があれば自然とそこへ行く。根鈴はそんな感覚でこの日もグラウンドに来ていた

 早々と自分に見切りをつけて第二の人生を歩んでいる相原を見て彼は何を感じているのだろう。人にはそれぞれ人生があり、それぞれが自分でその道を歩んでいる。それは、そうなのだが、あきらめの悪い、この男の歩んできた道には、なにか格別の味があるような気がしてならない。彼の歩んできた道を知れば、多くの人は、「なぜ」と思うだろう。その答えは、彼のユニフォーム姿を見ればすぐにわかる。根鈴は心底野球が好きなのである。それだけであった。
 この試合を主催した独立リーガーは、はじめ彼に声をかけるのをためらったという。自分たちと格の違う根鈴が、シーズンオフにまさか河川敷の草野球まがいのゲームに参加してくれるはずがないと思ったからだ。
 しかし、これを聞きつけた根鈴は、

「どうして声かけてくれないの!」

と、自ら参加を申し入れたという。短期間でつぶれたカナダプロ野球リーグ時代のユニフォームを身にまとった根鈴は、グランドに現れると若い選手に交じって早速キャッチボールをはじめ、ノックバットを手にした。
 試合でも自らマウンドに立ったその姿は、野球少年そのものだ。彼は、職業としてというのではなく、根っから野球が好きなのだろう。このことは、彼にプロ意識が欠けているということを意味しない。芸人でも、普段の生活から話好きで、テレビで見るのと変らない者もいれば、トークは仕事と割り切って、プライベートではまったく別人の無愛想な人もいる。プロ野球選手としての根鈴は、芸人で言えば前者に当たるだけなのだ。
 ともかく、彼は野球をするのに場所を選ばない。メジャーの入口に片足を突っ込んだ男が、日本のプロ野球どころか、アマチュア球界でも一流どころから相手にされなかった独立リーガー相手に、からっ風が吹きすさぶ河川敷で硬式とは言え、草野球をしている。

「好きな野球ができれば、どこでもいい」

 この彼の姿勢は、これまで歩んできたプロ野球選手としてのキャリアが大きく関係しているのだろう。かつて、野球のエリート街道を歩んできたこの男は、「大人の世界」がつくった環境の変化に翻弄され、その道を踏み外した。そして、野球を求めてこれまで実に5つの国境を越えてきた。

《続く》

2011-12-13

オーストラリア野球紀行《番外編 vol.8(最終回)》

 世界の野球を求めて流浪する石原豊一氏が、2010年末~2011年明けに足を運んだオーストラリア野球レポートの第8弾です。今回で最終回となります。『野球小僧』4月号、6月号に掲載された同名の記事に掲載しきれなかった内容を連載中です。ぜひ、誌面と併せてご覧ください。

 

【『野球小僧』6月号の記事ラインナップ】は→こちら

【オーストラリア野球紀行《番外編》】過去の記事は→こちら

 

111213_austraria012010~11年のABLに参戦したムン・キュヒュン(韓国ロッテ)。

▼母国で活躍する豪州野球を経験した韓国人選手たち

 2011年シーズン、私は韓国へ渡った。
 プサンのロッテ・ジャイアンツの本拠地、サジク球場はこの日もファンの熱狂に包まれていた。内野の要、ショートを守っているのは、ムン・キュヒュン。キャンベラでプレーしていた6人の韓国人選手のうちのひとりだ。2割をきる打率は、オフェンス面でまだまだ課題が残っていることを示しているが、半分ほどの試合でスタメンを任せられていることは、デフェンス面では十分レギュラー選手として及第点を与えられていることがわかる。

 ベンチでその姿を見守っていた投手のイ・ジョンミンは、ABLでの野球留学について、試合数をこなせたのが大きいと語る。

「僕は、結婚式を控えていたので少し困りましたけどね。球団から言われて。でも、パワーのある向こうのバッターと数多く対戦できたことは本当に良かったです。どういうところに投げれば打ち取れるかがよくわかりましたから」

 オーストラリアのシーズン中に予定されていた結婚式だったが、これは一旦チームを離れて帰国して実施したという。冬季リーグの参加に関して、日本では、労働組合でもある選手会との関係もあって、NPBの選手のフルシーズンの参加はできない。幾分緩和されたとはいえ、豪州、カリブ問わず2010~11年の参加選手は年内には帰国している。
 それに対して、韓国の選手は慣れない環境の中、「田舎町」のキャンベラで期間中ずっと過ごしたという。

「食事はきつかったです。キャンベラには何もありませんでしたから。その分、(コリアタウンのある)シドニーでは、思う存分韓国料理を味わいましたけどね」

 彼ら1軍の当落線上にある選手には、オフを楽しんでいる余裕などないようだ。つかの間の甘い新婚生活も返上し、慣れない環境でプレーしても彼らにはABLからギャラは一銭も出ない。派遣先のロッテが、滞在費など一切を持ってくれるだけだ。それでも、彼らは海外でのプレーを貴重な経験として自分の血、骨とすべく切磋琢磨している。
 イ・ジョンミンが海外でプレーするのは、今回のABLが初めてではなかったという。決して恵まれているとは言えない海外でのプレー経験は、彼に北米のマイナーリーグの過酷さを認識させ、真の意味でのハングリー精神を植え付けた。そして彼の目を海外のより上位のリーグへ向けさせた。

「将来はやっぱり日本でやりたいです」

 日本以上に厳しい練習で知られている韓国野球だが、オージーペースののんびり野球にも彼らはすんなり入っていけたという。

「うちの監督はアメリカ人でしたから」

111213_austraria02試合後、取材に応じてくれたイ・ジョンミン(左)とムン・キュヒュン(右)

 昨年までロッテの指揮をとっていたロイスター監督は、メジャーでの監督経験もある韓国球界初のアメリカ人監督だった。彼は、いまだ根性主義のはびこる韓国の練習方式を改め、「合理的」なアメリカ流のものにした。パースのアメリカ人監督・ナイトが、万事のんびりペースのオージー野球と苦闘したのとは対照的だ。
 同じアメリカ人がハードワークだとする韓国野球と、プロ意識を注入しようとする豪州野球を体験した彼らは、将来新たな野球のグローバルスタンダードの担い手になっていくことは間違いない。無論そこからまた、各々の地のローカルな「われわれ流の野球」も生まれていくのだろうが、豪州で出会った選手に韓国で再会し、その彼らが、そのキャリアの先に母国での成功だけでなく、海外の上位リーグまで見通していることに野球というスポーツのグローバルな拡大をみずにはいられなかった。

 この連載を終えるにあたって最後にもう一人、4月半ば、関西独立リーグからメルボルン・エーセズに参加した西川徹哉にも再会した。
 当初見込んでいたMLBとのマイナー契約が叶わず、少々荒れた時期もあったが、この時は次へのステップアップとして北米独立リーグでのプレーを前向きにとらえていた。しかし、これも結局実現することはなかった。契約までこぎつけたものの、ビザがおりず、彼は貴重な1シーズンを棒に振ることになった。
 彼は結局、9月になって関西独立リーグに復帰することになった。消滅した古巣の神戸ナインクルーズの元選手が中心となって結成した新球団、兵庫ブルーサンダースに加入、チームのシーズン終盤の驚異的な追い上げに一役買い、総合優勝にも貢献した。

 

▼豪州野球に未来あれ

 2011年秋。今年ももABLが開幕した。
 しかし、前回参加したアジア人選手はもういない。彼らにとって豪州は「修行」の場であって、長くいるところではないのだ。アジア、北米からはまた新しい選手が、「修行」ため海を越えてやってきている。
 そして、前シーズン優勝のパース・ヒートは豪州のチームとして初めてアジアシリーズに参戦した。日本や韓国にとってのファームリーグの役割を果たしているABLが、両国のチャンピオンチームに勝てるはずはやはりなく、スコア以上の実力差が目立った試合が多かったが、このシリーズ参戦は豪州野球にとって大きな一歩となっただろう。ABLのチームが、このシリーズで日韓いずれかのチームを倒したとき、アジア太平洋地域の野球はまたあらたな歴史を刻むことになるはずである。

111213_austraria03
 豪州は日本人の人気の旅行先である。
 大自然や、きれいな街を訪ねるのもまた良い。しかし、時間をとって是非ともクリケット場を改装した、またアメリカのマイナーリーグのそれをまねた球場にも足を運んでほしい。
 そこには「観光コース」ではない生のオージーが目の前に広がっているだろうから。

 

《終》

 

■石原豊一(いしはら・とよかず)
大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。

2011-05-24

オーストラリア野球紀行《番外編 vol.3》

 世界の野球を求めて流浪する石原豊一氏のオーストラリア野球の記事の第3弾が登場。5月10日に発売された『野球小僧』6月号に掲載されいてる「オーストラリア野球紀行《後編》」はもうご覧頂いてくださいましたか? ぜひ誌面と併せてご覧ください。

 

【『野球小僧』6月号のご案内】は→こちら

【オーストラリア野球紀行《番外編 vol.1》】は→こちら

【オーストラリア野球紀行《番外編 vol.2》】は→こちら

 

オージーペースのおおらか野球

110524australia_baseball02 オーストラリアン・ベースボール・リーグ(ABL)の雰囲気はどのようなものか? と聞かれれば、「ここはやはり豪州」と答えるべきか。リーグ運営にもプレーにもおおらかさが漂っている。
 球場の雰囲気は北米マイナーリーグのそれで、フロントスタッフが時にはコスプレをしたりして観客を出迎える。また、選手の雰囲気はラテンアメリカに近いか。試合前はまるで緊張感がなくコーチと一緒になって遊んでいる。これには日本人から見ても練習をしないアメリカ人たちも半ばあきれていた。
 そして、豪州人選手はみな地元チーム所属とあって、スタンドの雰囲気は社会人野球のような感じだ。試合後には選手が観客と談笑するシーンは当たり前のものとなっている。

 我々から見ればのどかすぎるプロ野球なのだが、「こののどかさが今後のABL発展のカギ」と言う関係者もいる。オージーたちの気性の荒さは折り紙つきで、ラグビーなど他のスポーツのスタンドは結構殺気立った雰囲気があり、家族で気楽に観戦できる野球は貴重なスポーツらしい。
 それでも、一旦スイッチが入った彼らのプレーは真剣そのもので、そのレベルには日本の球団関係者も舌を巻いていたという。現にこのリーグに参加した日本人選手として、亀井義行(巨人)こそ4割3分8厘、7本塁打と力の差をみせつけたが、かつてのローテーション投手でもある金刃憲人(巨人)は2勝2敗、防御率4.35と苦戦した。

 私はシドニーのオリンピックセンターにて、パース・ヒートの監督を務めるアメリカ人、ブルック・ナイトと話をする機会に恵まれた。アメリカでは某名門大学で指導者をしているという「外国人監督」の彼に訊ねたのは、“豪州野球の印象”について。同じ英語圏で、しかも白人主体の社会ということで、コミュニケーションは問題ないと思うが、野球に対する構えは米豪の間では随分と違いがあるように思えたからだ。
 とにかくここの選手からは緊張感がまったく伝わってこない。確かにチャンスで凡退などすると鬼の形相でベンチに帰ってきて今にも大暴れしそうな選手もいるのだが、あいにくここには暴れようにもそのスペースもないので、そういう選手はベンチでムスッとしている。試合直前でも選手とコーチが、楕円形のフットボールを蹴りあって遊んでいたり、試合中もスタンドに知り合いを見つけるとゲームそっちのけで談笑していたりと、とにかく彼らの野球は「エンジョイ・ベースボール」なのだ。そういえば、1月6日のメルボルンでの試合でも、フィールドの端のブルペンでは、若いリリーフピッチャー相手に、大ベテランのバーンサード(元巨人)が、フィールドに背を向けてガッツポーズを何種類か披露し、「かっこいいガッツポーズ」について講釈していた。

「こっちのベースボールは随分enjoyableだと思うんだけど、どう?」

 僕の質問に、彼は即座に答えた。

「そのとおり、それがこの国の野球の課題なんだ」

110524australia_baseball01プレー以外では、常になごやかでのんびりした光景が目に付くオーストラリアのリーグ。それもこの国の野球の一部だ

 続けて彼は、あるエピソードを紹介してくれた。
 ブリスベン・バンディッツには、ソフトバンクから4人の選手が派遣されたが、彼らは毎試合後、ストレッチを欠かさなかったという。それを見て豪州人のチームメイトは、「あいつら何やってんだ?」と驚いていたらしい。試合後のストレッチについては、アメリカ人の彼も驚いたらしいが、豪州人たちはアメリカ人が当然のようにおこなう試合前のストレッチに関してもあまりすることはなかった。とにかく、ふっらと球場に来て適当に体を動かして試合に臨み、試合が終わればさっさと帰宅する。そんな草野球のような毎日を彼らは送っているようなのだ。

「日本人選手は確かに我々アメリカ人から見ても勤勉すぎる。でもオージーたちから見れば、我々アメリカ人も『練習の虫』に見えるのさ」

 アメリカ人の彼もまた、豪州という「異文化」に向き合い苦闘しているようだった。
 「あいつらに言ってやってくれよ」と、内野ファールフィールドでたむろしている選手たちに視線をやりながら、ナイトはその選手たちのもとへ足を運んでいった。

 

のんびりしたペースも、それがオージーズスタイル

 しかし、無理もない。彼らオージーにとって、日々の細やかな体のケアが、試合中のパファーマンスに影響を及ぼし、それが何千万円、ときには数億円にも及ぶ収入の格差になるなどということは、この国にいる限りなかったのだから。海外のプロリーグで大金を稼ぐ選手の噂を耳にすることもあるのだろうが、それ以上に入ってくるのは、豪州にいた方がよほどましと思えるほど低賃金で、バスに揺られてばかりの半年を過ごすマイナー暮らしの選手の話だ。そんなアメリカでの暮らしに見切りをつけた選手の多くは、母国に帰ってもクラブチームでプレーを続ける。あくまでプロでのプレーにこだわり、イタリアにまで渡った経験のあるアダム・ブライト(現巨人)は、欧州でのシーズン後、豪州に戻って非正規の土木作業員をしていたらしいが、そんな彼でも日本円にして30数万円の月給をもらっていたらしい。経済好調なこの国からバットとグローブを手にして出稼ぎにいくことは、結構なリスクを伴う行動なのかもしれない。
 彼らにとって野球とは、週末に楽しむレクリエーション以上のものではないのだろう。ナイトが率いるパースはプロ球団なのだからと、試合のない平日も全体練習をしているが、メルボルンに所属する西川徹哉に聞くと、彼のチームは、試合日以外は招集がかからないと言うし、ブリスベンも試合日以外の練習はないらしい。このことをナイトに話すと、これにも彼は驚いていた。

 そんな豪州で、ナイトは今、プロとは何かをのんびりムードのオージーたちに伝えようと奮闘している。パースは地理的に他の町と離れているせいもあってか、ABLの中でも北米やアジアでプロとしてプレーしている選手の割合が極端に少ない。プロ経験者は半分以下しかおらず、現役プロがおよそ半分、プロ経験者を含めると8割近くになるシドニーと比べれば、選手の経験値は大きく下回っている。
 それでもパースがレギュラーシーズンを2位で通過し、プレーオフを制してチャンピオンに輝いたのは、ナイトの指導力とパースのアマチュア野球のレベルの高さがマッチした結果なのだろう。
 そんなのんびりペースのオージー野球だが、豪州人指導者は少し見方が違う。シドニーのメイン球場の裏の練習用グランドで若い選手を指導していたクリス・オプスプリングス(元阪神)にそのあたりのことを聞いた。
 彼の答えはナイトとは随分違ったものだった。

「それで、いいんじゃない。ここにはここの野球があって。選手のレベルは決して低くないんだ。AAやAAAまでいった選手もうち(シドニー・ブルーソックス)には多いんだ。彼らには大きな可能性がある。それを最大限に発揮できる環境が大事なんじゃないかな。確かにアメリカや日本とは違うけどね」

 そして最後にこう続けた。

「それにしても日本は厳しかったけどね。それも日本のやり方だからそれでいいんだよ。そう言えば、岡田監督(現オリックス)、いつも怒ってたな」

 豪州野球のレベルが低くないことは、我々が一番知っている。アテネ戦士でもあるキャンベラのベテラン、ニック・キンプトンは、メッツのマイナーでもプレーしたが、その後来日して社会人野球のウェルネス魚沼でプレーした。このような選手がここにはゴロゴロいる。日本では、国際大会の豪州代表がまるで素人集団のように報道されることがあるが、実際はプロでも十分にプレーできるような選手が、プロとしてプレーするには海を渡らねばならないので、国内のアマチュアリーグでプレーしているだけで、草野球のオッチャンが、WBCや五輪に出場しているわけではないのだ。
 そんな彼らが、短期間だけとはいえ、外国人プロ選手とともに観客を集めてプレーするプロリーグが復活したことで、この先さらにスキル・アップをしていくだろう。豪州は今後、WBCなどの国際大会で、日本の強敵になるのは間違いない。
 彼らの「エンジョイ・ベースボール」だけを見て侮ると、日本は過去のアテネ、北京の五輪のように痛い目にあうことになる。

 

■石原豊一(いしはら・とよかず)
大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。

2011-02-01

ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて 前川勝彦(四国ILplus)編

110201maekawa01 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏による「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。久しぶりに登場したこのコーナーの今回の主役は、近鉄、阪神、オリックスなどで活躍した左腕・前川勝彦投手です。昨年は四国・九州アイランドリーグで活躍し、今なおNPB復帰にこだわる野球人のレポートをぜひお楽しみいください。

      

▼風をきって歩いたアマ~近鉄時代

「おいこらっ。やかましい」
 突然の野太い声に試合後のベンチは静まり返った。ただ何となくベンチの端で声をやり取りしていた片付けの選手はキョトンとしている。大学の体育会でも「誰が先輩か後輩かわからない」ようになってきている今の野球界にあって、先輩選手を挟んで声をやり取りすることが礼を逸する行為であることが、若い選手にはわからなくなってきている。
 彼にはそんな選手を取り巻く環境に配慮する風はまったくなかった。何が先輩の機嫌を損ねる行為なのかは、後輩は当然考えねばならない。ましてや、自分は彼らとは格の違う世界の人間なのだ。そのようなタテ関係から抜け出る方法はただ一つ。フィールドで誰にも文句を言わせない数字を残すことだけだ。
 実際のところ、彼自身は従順な若手選手であったわけではない。しかし、「生意気」のレッテルは、ある時期までは実力で封じこめてきた。彼が今、この四国九州アイランドリーグ(今季から四国アイランドリーグplus)という独立リーグで投げているのは、そんな「昭和風」な生き様があだになっているのかもしれない。
 一喝された若い選手たちは、いそいそとベンチを後にしていった。そしてその男、前川勝彦は、ゆっくりと自分の野球人生を語り始めた。

 1997年にドラフト1位で近鉄バファローズに入るまでの彼の野球人生は、向かうとこと敵なしであった。

「野球で他人に負けるということはなかったですね。PL学園に入ってからはレベルの違い感じましたけど。ここで一番になったらプロに行けると思ってました」

110201maekawa03インタビューに応じる前川投手。年齢とともに貫禄も出てきた

 そしてその言葉通り彼はこの名門高校でも「一番」になった。そんな彼にとって、卒業後の進路は、プロ野球以外に考えられなかった。ドラフトに際しても、指名されるかどうかの不安もなかった。むしろどこに自分が行くのか楽しみだったと彼は言う。
 彼の自信はプロ入り後も揺らぐことはなかった。多くの選手がプロ入り後直面する「えらいところに来てしまった」という感覚も彼にはなかったという。

「高校で鍛えられてたから体力的には大丈夫でした。技術的にはプロやからさすがやなと思いましたけどね。すごいレベルのところに入ったなとは思いましたけど、こういう(レベルの高い)ところでやっていくんやなっていう期待の方が大きかったですね」

 「プロでやっていくには、プレー中は先輩も後輩もない」という彼の強気な姿勢は、次第にピッチングにも反映されるようになっていく。3年目の1999年には完投勝利を含む2勝を挙げ、将来を嘱望されるようになった。そして翌年には先発ローテーションに入り8勝。低迷するチームの勝ち頭となった。そして2001年にはエースとして12勝を挙げ、近鉄球団最後の優勝に貢献する。
 今思えばこの23歳のシーズンが彼にとって、早すぎる生涯最高のキャリアとなった。この年以降、彼の成績は下降の一途をたどり、2004年には阪神、2006年にはオリックスにトレードされる。このトレードが乞われてのものではなく「放出」という色彩が強かったことは、これらの移籍先で勝ち星をわずか1つしか挙げることができなかったことが示している。
 二ケタ勝利を挙げ、年齢的にもこれからという時期からの成績の急降下について、彼は肉体の変化にイメージがついていかなかったことを挙げる。

「年々人間変わっていくわけやし・・・。ただ、(実績に)安心してしまったというのはありますね」

 自分のピッチングスタイルを模索し、その足がかりをつかもうとしたその矢先、彼は自身が起こした自動車事故のため、オリックスを自由契約となる。彼に手を差し伸べる球団はなかった。

     

▼ドミニカ→アメリカへ

 2007年は、結局どこのチームにも所属できず、ひとりでトレーニングする毎日だった。そんな「浪人」中の前川に手が差し伸べられた。ある人物の紹介で、ドミニカのウィンターリーグでプレーする機会が与えられたのだ。月数千ドルの給与で、数字が残せなければすぐにリリースされるという厳しい環境であると聞いたが、ここで実績を挙げれば、アメリカでのプレーの可能性が開けると聞き、前川は飛行機に飛び乗った。
 ドミニカのマウンドに立った前川は、「実際びっくりした」という。彼がチームに合流した11月は、ちょうどつかの間のオフをとったメジャーリーガーたちが母国のリーグに戻ってくるころだったのだ。久々の実戦の場に立った彼の前に立ちはだかる屈強な現役メジャーリーガーたち。だが、彼らを打ち取っていくにつれて、前川は次第に手ごたえを感じ取っていった。
 実は、彼はドミニカへ渡る以前にメジャーを相手に投げたことがある。それも名門ヤンキース相手に。2004年に日本で開催された米大リーグの今季開幕戦となる「'04リコーMLB開幕戦」のプレシーズンマッチのときのこと。松井秀喜(アスレチックス)の凱旋試合の意味合いも含め、半世紀ぶりにやってきた名門チームを相手に、彼は快投乱麻のピッチングを披露した。シーズン後の花相撲ではなく、日本での公式戦を控えた状況での試合で、前川は勝ち星を手にしたのだった。ヤンキースにとっては、長い歴史上、日本の単独チーム相手に初めてつけた黒星だった。

「そらテレビで見てた有名人ばっかりやったから感動はしましたけどね。マウンドに登るとそんなん関係ないですから。いざ投げると、なんや、こんなもんかって。だからって、このことがあったからってアメリカでやりたいとは思わなかったですね」

 海外でのプレーは、前川の中ではあくまで日本でのプレーが不可能になった上での選択肢であった。2008年、ドミニカでの活躍が認められて、彼はワシントン・ナショナルズとのマイナー契約を手にする。しかし、ビザの発給が遅れ、ようやく発給を受けた6月には彼の居場所はなかった。それでも、そのオフにはセントルイス・カージナルスの契約を勝ち取り、実戦感覚を取り戻すために今度はベネズエラのウィンターリーグにも参加した。

 メジャーにあこがれがあったわけではない。ただ野球を続けたい一心で渡ったアメリカだが、そのあこがれのなさが過酷な環境での厳しい競争に打ち勝つモチベーションを上げることを邪魔したのかもしれない。
 アメリカで手にしたチャンスを前川は生かすことができなかった。AAAでの成績は、1勝2敗防御率5.08。メジャーへの道のりは、決して近くはなかった。

「向こう(アメリカ)でもオファーはあったんですけどね」

110201maekawa02NPB復帰を目指して、今年、そしてこの先、前川投手はどこでプレーするのだろうか

 それでも前川はあくまで強気でこう言う。しかし、その条件が決していいものではなかったのは、なによりも彼の行動が示している。

     

▼NPBへのこだわり

 2010年、前川がプレーの場として選んだのは、日本の独立リーグだった。ここでの彼は向かうところ敵なしだった。30試合に投げて11勝8敗、防御率は1.36。9月24日には、リーグ史上2人目となるノーヒットノーランまでやってのけた。リーグ優勝を決めるプレーオフでも2勝、独立リーグ日本一を決めるグランドチャンピオンシップでも4試合中2試合に先発する大車輪の活躍。彼にとってこの舞台が物足りない場所であることは明白だった。

 彼の現在の目標は、NPBの1軍のマウンドに再び立つことだ。
 昨年もアメリカでのシーズン後、合同トライアウトを受験したが、興味を示してくれる球団はなかった。
 今年もシーズン後に行われたNPBのトライアウトには、前川の姿があった。しかし、彼のもとに吉報が届いた気配はない。しかし、彼は来年もどこかで投げ続けるだろう。

「まだまだ(現役で)行けると思うしね。そう思ってなかったら、(独立リーグで)投げてませんわ」

 若いころに比べ、幾分恰幅はよくなったが、スタミナ、球のキレはまだまだ衰えを知らない。彼の来年のフィールドは、今年と同じ四国かもしれないし、アジアの他の国かもしれない。ひょっとしたら、もっと大きな夢を求めて再びアメリカに渡る可能性もある。
 まだ、メジャーリーグが遠かった時代、芥川賞作家・高橋三千綱の小説に、ある事件で日本球界を追放された選手が、海を渡ってメジャーのマウンドに立つという物語があった(「カムバック」/1985年)。当時は絵空事であった日本人メジャーリーガーは、今や珍しいことではなくなっている。
 このオフも多くの日本人がアメリカ球界に渡ることになった。その中にはまだ前川の名はあがっていないが、私はひそかに海の向こうで彼のあのやんちゃなピッチングが見れることを楽しみにしている。

《終》

     

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/
 ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/
 コロンビア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat6387091/
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 スタ・ミシュラン(連載中)http://kozo.weblogs.jp/kozo/2011/01/1-3a8f.html

2010-11-24

離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略(最終回)

101124iblj01 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏。過去、当ブログにて、自ら赴いて体験してきた世界の野球を綴った「○○野球紀行シリーズ」や、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」ほか、多くの記事を執筆しています。

 そして今回、同氏が世界の野球と同じくして興味を持っている国内独立リーグについて、新たに取材に赴いて書き起こしたのが「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」です。四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツが熱心に取り組んでいる「地域密着」に視点を置いてレポートします。今回はいよいよ最終回です。

      

「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」の過去記事
第1回
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/post-5948.html
第2回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/2-fd19.html
第3回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/10/post-8f36.html
第4回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/11/post-5948.html

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
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ベースボールディアスポラ
長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 2010/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 2010/05/21

      

離島にプロ野球がやって来た ───愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略

町にとってプロ野球開催は遠方からの客にアピールするチャンス

101124iblj02イニング間にグランドを周回した協賛者の「のぼり」は、観客席のフェンスにも数多く掲げられた

 今回レポートしてきた独立リーグの離島での公式戦開催は、普段プロ野球を見ることのできない僻地の住民に生のプレーを提供する機会と思われがちだ。しかし、実際のところ、メイン球場以外の地方ゲームのスタンドには「常連さん」の姿の方が目立っている。地元住民はむしろ少数派かもしれない。
 この日も、松山から車やバスと船を乗り継いでやって来た熱心なマンダリンパイレーツのファンが一塁側スタンドを埋めていたし、その数は多くないものの、大阪からはるばる「遠征」して来たビリケーンズファンがいた。
 上島町も実のところ、これら町外からの客にあてにしていたようだ。尾道や因島からのフェリーが着く港には、試合会場まで無料のシャトルバスを用意して彼らを出迎えていたほどだった。
 無論彼らが、この日の野球観戦だけで莫大な額を町に落としていくわけではない。しかし、全国的にはほとんど知られていない「上島町」の知名度を少しでも上げていくことは、過疎に悩む日本の地方都市に共通の課題であり、独立リーグとはいえ、プロ野球が開かれることは町のアピールの絶好の機会だと言えるだろう。

 この日出店していた屋台のひとつに、レモンの加工品を売っている店があった。上島町は町のアピールのために四季それぞれに名物を設定している。春は「桜・桜鯛」、夏は「釣り・海水浴」、秋は「レモン・祭り」、冬は「温泉・デビラー」というのがそれであるが、秋の「レモン」は隣の岩城島の特産品なのだ。加工・販売は町も出資している第三セクターが行っており、知名度の決して高くないこの特産品の販路の開拓は大きな課題となっていた。現在のところ、四国内と地道に開拓していった東京の百貨店、スーパーが主な販売ルートらしい。

「こういうイベントは、大きいですよ」

 屋台の販売員は手を休めて私の質問に答えてくれた。

 夏には、町主催で大きな花火大会と夜市を催している。これには、町を出た帰省客が多く押しかける。彼らはこのイベントを通じて出店に出品されていた故郷の名産を都会へ伝えてくれる。それと同じように年一回の野球開催は、松山を中心とする県内の「本土」の人々や、今年の場合は関西第一の都市、大阪からの来客に、イラストレーターの涌島克己氏が手がけたイメージキャラクターこと「上島四兄弟」や、町の特産品のブランドをアピールする絶好の機会なのである。この日の売り上げもかなりのものになるらしいが、それ以上に野球というイベントを通じた町の産品の広告効果は絶大なものである。

      

戦い済んで

101124iblj03選手名を紹介するタペストリー風のネームクロスには、熱心なファンからのメッセージが寄せ書きされている。これも「おらが球団」独立リーグならではの光景だ

 結局、試合は終盤、マンダリンパーレーツ、ゴールドビリケーンズとも一歩も譲らず引き分けに終わった。地元チーム、パイレーツの勝利は目に焼き付けることはできなかったものの、はるばるやってきたビリケーンズが、遠征の疲れを見せることなく必死で食らいついたゲーム内容に観客は一様に満足な表情を浮かべて家路についた。

 試合後、上島町のマイクロバスだけでなく、マンダリンパイレーツもチームバスをファンに提供。離島まで足を運んでくれたファンを港まで運んでくれた。観客の多くは、ここからあるものは今治へ、またあるものは対岸の因島へ渡りバスに乗り換えて家路についた。
 私はと言えば、港に留めておいたレンタサイクルにまたがってフェリーで因島に渡り、一路尾道まで走った。しまなみ海道はサイクリングのメッカでもある。観光客の多くは、乗り捨て可能なレンタサイクルで尾道、今治間を、島々を巡りながら走破する。このツーリングの一部にアイランドリーグ観戦を組み入れるというのも、今後ひとつの観光の目玉としていけるのではないか…? そんなことを考えながら夕日に染まる尾道水道を渡し船で渡った。

      

《終》

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この暮れにはオーストラリアに赴き現地の野球を見てくる予定。 

2010-11-12

離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略(第4回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏。過去、当ブログにて、自ら赴いて体験してきた世界の野球を綴った「○○野球紀行シリーズ」や、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」ほか、多くの記事を執筆しています。

 そして今回、同氏が世界の野球と同じくして興味を持っている国内独立リーグについて、新たに取材に赴いて書き起こしたのが「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」です。四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツが熱心に取り組んでいる「地域密着」に視点を置いてレポートします。今回は第4回目です。

      

「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」の過去記事
第1回
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/post-5948.html
第2回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/2-fd19.html
第3回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/10/post-8f36.html

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
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ベースボールディアスポラ
長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 2010/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 2010/05/21

      

101112iblj04試合会場のいきなスポレク(http://ww9.tiki.ne.jp/~sporec/index.htm)は、スタンドが芝生で屋根もない。試合当日は暑い日だったが、観客はネット裏の屋内施設の休憩場と行き交うなどして暑さをしのいでいた

離島にプロ野球がやって来た ───愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略

いよいよプレイボール

 試合は大阪・遠上賢一、愛媛・森辰夫の先発で始まった。
 四国・九州アイランドリーグのペナントレースにおいて、香川オリーブガイナーズの前後期制覇を阻むべく首位香川を猛追しているマンダリンパイレーツは、初回に5番末次峰明の内野安打で早くも先制する。ビリケーンズもこれに負けじと3回に先頭打者の四球を足がかりに2点を入れて逆転。それもつかの間、愛媛はその裏に1番秋山繁、4番西村悟のソロホームラン2本でたちまちリードを奪い返した。
 白熱するシーソーゲームに、島の内外から集まった観客は大騒ぎだ。特に地元の子供たちは、おそらく初めて目にしたことだろう2本のオーバーフェンスにすっかり酔いしれていた。

  

試合を飽きさせないしかけと観客の反応

 その後、5回表にビリケーンズが1点を取ると、試合は膠着状態に陥った。両軍ともチャンスらしいチャンスがないまま、イニングだけが進んでいく。ある意味、観客にとっては面白味のない投手戦だ。

101112iblj02球場の外では、着ぐるみのマスコットが動きまわり、子供たちを中心に観客を盛り上げる
 それでも、せっかく暑い中来場してくれたファン、特にこどものファンを喜ばすべく、マスコットがスタンドを動き回っている。猛暑の中、気ぐるみを着ての活動は大変な重労働だろう。また、フィールドではイニング間にゲームが行われるなど、様々な仕掛けも行われていた。
 野球ビジネスにおいて、フィールドに観客の視線をくぎ付けにしておくことは重要なことである。多くの人の視線の集まる場は、絶好の広告スペースになるからだ。ゲームが止まっているイニングの間、アトラクションとともにボランティアスタッフによってスポンサー企業ののぼりが一塁側ファールゾーンを一周する。ローカル色豊かな地元企業や魚協の名が観客に披露される。県外から来た人にとってはおそらく初めて目にするだろうこれらの企業名は、それゆえに貴重な宣伝媒体であることを示している。
 しかし、一向に動かない試合に、やがて観客の方が動き出した。正直この球場は観戦向きでない。スタンドは芝生席があるのみ、その上、日よけは一、三塁の内野席とネット裏にテントが臨時に張られているだけで、観客は灼熱の太陽の下、真夏の観戦を強いられている。
 暑さに耐えかねたファンは次々とスタンドをあとにした。しかし、彼らは球場から出ていくわけでない。スタンドを出れば、地元グルメが、かき氷や冷たい飲み物、ビールがともに迎えてくれる。食事は球場の後ろに建っているスポーツセンターの建物下の休憩スペースでテーブルに座りながらできる。ここでしばし涼み、球音が恋しくなれば、観客は思い思い自分のペースで再び観戦に戻っていった。

     

スタンドにいたブロンド女性の正体

 そんな中、ふとスタンドの観客の中にブロンドの若い女性がいることに気づいた。この離島には珍しいと思い話を聞いてみると、彼女は英会話の先生としてこの町の小中学校にアメリカはオレゴン州からやってきたのだと言う。彼女の出身地であるオレゴン州・ユージンという田舎町にもマイナーリーグのチームがある。
 だが、彼女の返答は「でも、シアトルまでは近いからマリナーズの試合をよく観たわ」とのことだった。地元マイナーチームの試合は、1回しか行ったことがないらしい。日本で野球を見るのは無論のこと初めて。彼女を受けいれた町の教育委員会の関係者が連れてきてくれたのだそうだ。
 オレゴン州はアメリカ北西部のどちらかというと辺境地である。プロ野球チームもあるにはあるが、ランクの低いショートシーズンや独立リーグのチームがほとんどである。球場の雰囲気も今日のそれに似ているのかと聞いたが、やっぱり違うという答えが返ってきた。

101112iblj03イニング間にグラウンドを周回するスポンサー企業の“のぼり”。スタンドを囲むネットにも数多く掲げられていた

「ユージンのボールパークには小さいけれどちゃんとしたスタンドがあったわ。それにアメリカにはこんなのはなかったわ。あと、そう、逆にここにはホットドッグはないわね」
 彼女が“こんなの”と示したのは、自分の手に持っていた日本の野球観戦にはつきもののプラスチック製メガホンであった。
 それでも彼女は、日本で始めて観るプロ野球を十分に堪能したようだ。この島では1試合しかないのだと知ると、どこで観ることができるのか聞いてきたほどだった。

      

《続く》

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この冬にはオーストラリアに赴く予定。 

2010-10-12

離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略(第3回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏。過去、当ブログにて、自ら赴いて体験してきた世界の野球を綴った「○○野球紀行シリーズ」や、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」ほか、多くの記事を執筆しています。

 そして今回、同氏が世界の野球と同じくして興味を持っている国内独立リーグについて、新たに取材に赴いて書き起こしたのが「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」です。四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツが熱心に取り組んでいる「地域密着」に視点を置いてレポートします。今回は第3回目です。

      

「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」の過去記事
第1回
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/post-5948.html
第2回http://kozo.weblogs.jp/kozo/2010/09/2-fd19.html

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
コロンビア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html

ベースボールディアスポラ
長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 2010/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 2010/05/21

      

離島にプロ野球がやって来た ───愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略

101012_iland01特産品を受け取る大阪ゴールドビリケーンズ・村上隆行監督(左)と愛媛マンダリンパイレーツ・沖泰司監督(右)

 試合前には両軍の監督、コーチ陣と選手全員の紹介が行われた。はるばる大阪からやってきたビリケーンズには、ねぎらいのアナウンスがなされる。独立リーグならではの風景だ。
 昨年のチーム立ち上げ以来、なにかと苦労の多いビリケーンズ。関西独立リーグを圧倒的な強さで優勝しながら、今年は新リーグのJFBLに移籍した。しかし、野球賭博にからんだ選手の不祥事もあって球団存続の危機に立たされている。一度は、公式戦参加の断念も一部で報道されたが、フロント、指導者、残った選手が一丸となってシーズン最後まで戦うことを明言していた。
 経費削減のため、この四国でも小さなマイクロバスで移動し、基本日帰り。どうしても宿泊せざるをえないときには、安宿で雑魚寝するらしい。時にはお寺のお堂を宿泊所にすることもあったという。この日も早朝大阪を経ち、この島までやってきた。遠路島まで来てくれたビリケーンズに観客から惜しみない拍手が贈られた。
 両軍の紹介の後、島の特産品が愛媛・沖泰司、大阪・村上隆行両監督に手渡された。村上の手から品を受け取った選手の顔に笑みがこぼれる。高給取りのNPB選手にとっては別段喜ばしいものでもなかろう島からのささやかなプレゼントも、独立リーガーたちにとってはありがたい差し入れだ。

 少々長めのセレモニーが終わると、いよいよプレーボール。一塁側スタンドの奥、ポール際には松山から大挙やってきたパイレーツ応援団の掲げる旗が何本もなびいている。
 ビリケーンズにとっては完全アウェーの雰囲気なのかと三塁側スタンドに目をやると、なんとビリケーンズ応援団も数は少ないものの陣取っていた。聞けば、彼らははるばる大阪からやってきたとのこと。そのうち何人かは、前日の高知での試合からチームに帯同しているという。
 リーグを移籍したビリケーンズは、今季、近畿の端、三重と四国でアウェーゲームを消化した。熱心なファンたちはホームゲームだけでなく、時間の許す限りこれら遠征にも応援に出かけたそうだ。この日大阪とその近辺からやってきたビジターチームのファンは、その数およそ数十人程度ではあったが、この離島に遠方から人が来ることにこの試合の意義がある。

 マイナーリーグビジネスの本場、北米では「インタンジブル・ベネフィット」という言葉がある。「無形の利益」という意味だが、マイナーリーグ球団の誘致は、それ単体では利潤を生み出さなくても、地域コミュニティの活性化、外部への町のアピール・宣伝、野球興行によって生じる様々な産業の活性化など、トータルで考えれば町に利益をもたらすという考え方だ。
 この島の独立リーグの試合開催も、試合自体が球団、町に直接の利益を生み出さないとしても、町の少年たちに対するスポーツ振興、町民への娯楽提供のほか、外部から来た人々に対する町のアピールという意味では絶好の機会になっている。この日、大阪から来たビリケーンズファンのほとんどは、愛媛県に上島町という町が存在していたことなど知らなかっただろうし、野球の試合がなければ、生名島という瀬戸内海に浮かぶ小島を訪ねるなんてことは、それこそ一生なかったかもしれない。この野球観戦を機会に島を訪ねた人が、今度は島の美しい海やスポーツ施設を楽しむために来てくれたり、島の特産品が口コミで広がれば、この試合の意義は大きなものとなっていく。

101012_iland02試合前のセレモニーの風景。愛媛マンダリンパイレーツのような地元密着の姿勢を一貫することで、地方公共団体の支援を得ながらチームを運営していく手法は、現在の国内独立リーグにおける唯一の光明となっている

 誕生して6年目を迎える日本の独立プロ野球リーグだが、現在それを取り巻く環境は厳しい。愛媛マンダリンパイレーツはその中でも数少ない成功例だろう。
 その成功の裏には、独立リーグというスポーツコンテンツに対して、球団だけでなく新たな出資者となった地方公共団体が単なるプロ野球興行以上のものを見出したことがある。それこそが「インタンジブル・ベネフィット」と言えるのではないだろうか。

      

《続く》

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この冬にはオーストラリアに赴く予定。 

2010-09-28

離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略(第2回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏。過去、当ブログにて、自ら赴いて体験してきた世界の野球を綴った「○○野球紀行シリーズ」や、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」ほか、多くの記事を執筆しています。

 そして今回、同氏が世界の野球と同じくして興味を持っている国内独立リーグについて、新たに取材に赴いて書き起こしたのが「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」です。四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツが熱心に取り組んでいる「地域密着」に視点を置いてレポートします。今回は第2回目です。

      

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
コロンビア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html

ベースボールディアスポラ
長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 2010/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 2010/05/21

      

離島にプロ野球がやって来た ───愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略

100928speach上島町長・上村俊之氏が試合前に熱のこもった挨拶をした

  瀬戸内海に位置する上島町は、広島・尾道と愛媛・今治の間に点在するいくつかの島々が集まってできた町である。その中のひとつ、生名島でのアイランドリーグの公式戦は昨年から始まった。
 島の住民にとっては年一回生で観ることのできるプロ野球である。この離島の住民にとって、「プロ野球」というのはテレビでしか観ることのできないものである。NPBは地方開催のゲームも行うが、施設の規格が不足しているのかこの島にはファームすらやっては来ない。
 そこへ新たな「プロ野球」として四国・九州アイランドリーグができたわけだが、この島から愛媛の地元球団である愛媛マンダリンパイレーツの本拠地・松山まで出るには、車で2、3時間、船やバスなど公共の交通手段だと半日かかってしまう。そのような状況を考慮して、マンダリンパイレーツは創立以来続けている地方球場での試合開催の一環として昨年はじめてこの島での公式戦を開催したのだ。
 マンダリンパイレーツの地方ゲームは単に試合を開催するだけではない。試合当日は地元の物産展が開かれたり、ご当地グルメの屋台が出たりと、試合会場周辺はさながら祭りの場と化する。この日も、町が無料のシャトルフェリーを出したことが功を奏して、生名島だけではなく町内各島からひとびとが集まっていた。

 マンダリンパイレーツのオーナー、薬師神績は、これら地方開催ゲームの多くについて、その収支は「トントン」だと言う。選手、スタッフの労力を考えれば、県内の主要都市だけの開催に留めた方がいいのかもしれないが、昨年末決まった県をはじめとする公共団体からの出資は、この地道な活動無しにはありえなかったと薬師神は語る。実際、県内各町村から試合の開催要請は殺到している。この生名での試合も、上島町の熱心な要請がきっかけとなって実施された。
 上島町の肝煎りで開催された試合とあって、開始前には町にちなんだセレモニーが行われた。まずは、上島町長・上村俊之氏の挨拶。通常地方ゲームのこの手の挨拶は退屈なものだが、この日の上村氏の挨拶からは、この試合にかける町の情熱が伝わってきた。

 上島町は2004年、いわゆる「平成の大合併」によって生まれた町である。生名島はそれまでは、「村」にしか過ぎなかった。合併後、町を形成する4つの主な島が橋で結ばれることになった。その工事は現在進行中だが、これからこの町はかつてばらばらだった各島民のアイデンティティをまとめてゆかねばならない。そのためには、島民どうしの交流を盛んにしてゆかねばならない。そこで、町では町民が島の枠を超えて集まるイベントをどんどんしていきたい、とあれこれ知恵を絞っている。
 また、上島町は尾道と愛媛を結ぶ「しまなみ海道」からも外れており、海道沿いの島に比べて流通の面での不利は否めず、観光資源、産業の乏しいこの町は人口の流出にも悩まされている。

 このイベントの最中に上村町長に話が聞けた。町長はこのような町をめぐる現状を打破するため、独立リーグの試合開催は是非とも必要なものだと言う。町の活性化のため、プロ野球開催を今後も大いに利用したい意向だった。しかし、このような町おこしのプロジェクトもまだまだ道半ばといったところであることは、町長の言葉の端々から受け取れる。
 この日の試合会場、「生名スポレク」は旧生名村時代にできたスポーツ総合施設である。県内外からのスポーツ合宿などの誘致を通じた村の活性化を狙ったものであるが、町長はその点においてもまだまだせっかく造ったこのコンテンツを十分に活かしきれていないと言う。

「補助金ついたからというだけで造ってほったらかしならやめてしまえって言っているんですよ。もっとアピールしていかないと」

 せっかくのグランドだが、他島からのフェリー乗り場のある島の中心とは反対側にあるという立地と、交通の便の悪さから町民ですらあまり利用しないらしい。来年隣の岩城島とを結ぶ橋が開通すればバス路線も開設され、この施設の利用状況も改善されるのだろうが、それとは平行して、外部からの利用客を増やしていく必要がある。
 町長の目標は、町内での起業の活性化を通じた雇用創出とその一環としてのツーリズムである。その観点からも年1回のプロ野球開催は有効な町おこしの手段だろう。

100928_opening_ceremony始球式の模様。観客の数は決して多いとは言えなかったが、球場周辺はお祭りムードとなった

 正直のところ、この球場は野球観戦に向いているわけではない。そもそもがスペクテイタースポーツ(観客が楽しめるスポーツ)用に造られたものではないのだから当然と言えば当然である。そのうえ、8月の猛暑の中の観戦は、野球に集中できない。照明はあるにはあるのだが、プロの試合を行うには照度が不足している。たとえプロ仕様の照明があっても、試合後の交通手段の乏しさを考えれば、ナイター開催は現実的ではないだろう。
 要するに、このような僻地に関しては、野球は二の次でいいのだ。野球を通じた「祭り」の開催こそが、マンダリンパイレーツの地方ゲーム開催の意義なのである。
 その祭りの開催も、今のところはあまりうまく機能しているとは言えなかった。この日の観客数は、837人。昨年の初開催では、小雨の降る悪天候の中、900人超を集めたのに今年はそれを下回っている。町は愛媛球団にかわって事前に前売りチケットを町内各所で販売し、この試合のアピールに努めたが、予想ほど人は集まらなかった。猛暑のせいもあるだろうが、一番の原因は、小中学生相手の別のイベントが町内の他の島で行われていたことであったらしい。

「こんなこと(この日の試合)は、ずっと前からわかっているのに、どうして別のイベントをやるのかまったくわからない。まだまだ意識が低いんですよ。このあたりの役人の体質から変えていかないとダメなんですど、なかなか変わっていかないですね」

 上村町長は、ため息まじりにグランドに目を投じた。マウンドでは、この日の試合を盛り上げるべく、島に戻ってきた陸上世界選手権やり投げの銅メダリスト、村上幸史選手が始球式で剛速球を披露していた。

      

《続く》

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この冬にはオーストラリアに赴く予定。 

2010-09-21

離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略(第1回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏。過去、当ブログにて、自ら赴いて体験してきた世界の野球を綴った「○○野球紀行シリーズ」や、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」ほか、多くの記事を執筆しています。

 そして今回、同氏が世界の野球と同じくして興味を持っている国内独立リーグについて、新たに取材に赴いて書き起こしたのが「離島にプロ野球がやって来た~愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略」です。四国・九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツが熱心に取り組んでいる「地域密着」に視点を置いてレポートします。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
コロンビア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html

ベースボールディアスポラ
長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 2010/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 2010/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 2010/05/21

      

離島にプロ野球がやって来た ───愛媛マンダリンパイレーツの地域密着戦略

100921iland今回は瀬戸内海の離島が集まる上島町が舞台となる

 因島からの渡し舟で島に到着すると、波止場では地元のおばあちゃんが出迎えてくれた。言われるがままに進むと、駐車場にシャトルバスが待っていた。マイクロバスに乗り込んだのは私だけでなく、大勢とは言わないまでも座席の半分ほどは埋まった。運転手に聞けば、この日の試合のために午前10時半から周辺各島からの船が着くたび、港とは島の反対側にある野球場まで観客を運んでいるという。
 球場までの10分ほどのドライブ。来年には開通する隣の佐島とを繋ぐ巨大な吊り橋を目にして乗客が驚きの声を上げる。

「去年はなかったのにね」

 私の後ろに座っていた女性客は熱心なファンのようで、話し振りからはチームの本拠地、松山からバスと船を乗り継いではるばるこの離島に足を運んだらしい。現在のところ、プロ野球独立リーグを支えているのはこのようなコアなファンである。彼らはこの底辺のプロ野球の魅力をプレーヤーとの距離の近さだと口をそろえ、そういう選手たちのひたむきな姿を目に焼き付けようと毎週末、県内各地の球場に足を運ぶ。

 今年8月最後の日曜日、四国九州アイランドリーグの愛媛マンダリンパイレーツは瀬戸内海に浮かぶ広島県境の生名島で公式戦を開催した。この球団はリーグ発足以来の「地域密着」の理念のもと、県内の様々な球場で試合を開催している。今年も県内13球場で試合を開催した。球団オーナーが「おそらく日本一だ」と胸を張る、普段からの野球教室や幼稚園、老人ホーム訪問などと合わせると、その地域貢献プログラムは、確かにプロ野球界ナンバーワンだと言えるだろう。その結果、今年からは愛媛県だけでなく、県内の市町村からも増資を受け、名実ともに「県民球団」として、今や日本における独立リーグの優等生として活動している。

 生名島は今治と広島県尾道を結ぶ本四連絡橋である「しまなみ海道」沿いにある。造船で有名な広島県の因島は目と鼻の先で、フェリーというよりは渡し舟に近い小船で5分ほどの距離だ。かつては一島で「生名村」だったのが、いわゆる「平成の大合併」で周辺の島の町村と統合され、現在は上島町の一部をなしている。かつての生名村はこの小さな離島の村おこしをスポーツによって行おうとしたらしく、この日の試合会場「生名スポレク公園」は、野球のグランドのほか体育館、プール、合宿所を備えた総合スポーツ施設である。公園の入り口には小さいながらもきれいなビーチがあり、夏のバカンスを過ごすには最高の場所であった。

100921taremakuイベント会場に掲げられた垂れ幕

 バスは、その公園の入り口の駐車場でわれわれを降ろした。丘を切り開いて造った野球場への坂を登る。内野にあいそ程度にある小さなスタンドの中央、バックネット裏はそのまま体育館の建物につながっている。その前にはたくさんの出店が出ており、いまだ真夏のような日差しが照りつける中、焼きそばや名物の豚の串焼きを焼く煙がもうもうと立ち込めている。島にとってのこの夏最後のイベントとあって大勢の人々が早くからここに集い屋台での食事を楽しんでいた。
 その様子は祭りそのもので、その横では小さいながらもウォータースライダーのついたプールで子供たちが満面の笑みでたわむれている。なんだかこれだけで完結してしまったような風景だが、体育館の壁にぶら下がっている「歓迎 愛媛マンダリンパイレーツ」、「歓迎 大阪ゴールドビリケーンズ」の垂れ幕がここがプロ野球の試合会場であることを実感させた。

      

《続く》

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この冬にはオーストラリアに赴く予定。 

2010-08-03

ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(番外編)

100803nagasaka01 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏がお送りする、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)、第2弾は40歳となった昨年、メジャーリーグに挑戦した際の高橋建投手(広島)、そして第3弾は、アマチュア時代に一度第一線から退きながらもアメリカで復帰、多くのチームを渡り歩いたのちに今年はBCリーグの新潟アルビレックスでプレーしている長坂秀樹(新潟アルビレックス)が登場しました。またその後、単発記事として、アルゼンチン出身のクラウディオ・フクナガ選手(紀州レンジャーズ)の記事も掲載されています。

 そして今回は、第3回に登場した長坂秀樹(新潟アルビレックス)編の続き、いわば番外編です。筆者の石原氏がBCリーグの観戦がてら新潟に取材に赴き、そのときの話も踏まえて新たに描き起こしました。果たしてどんな後日談となっているのか? さあ、スタートです。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
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 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
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◆そして、現在別途継続中
 コロンビア野球紀行
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◆ベースボールディアスポラ -長坂秀樹編
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回) 10/06/11
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回) 10/06/04
ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回) 10/05/21

      

★終わらない旅 ─── 長坂秀樹(新潟アルビレックス)番外編

「それ、どこのチームのですか? どこの国で買ったんですか? 向こう懐かしくって仕方ないんですよね」

 久しぶりに会ったその男は、相変わらずの人懐っこい笑顔で迎えてくれた。私のポロシャツの胸のマークを見て、どこか外国の野球チームのものだと思ったらしい。

「いや、これは国内で安売りを買ったんだ」

 そう答え、私は席に着いた。

 その男、長坂秀樹は、今頃アメリカにいるはずだった。
 本人もそのつもりだったし、現に昨年所属したゴールデン・リーグのユマ・スコーピオンズと契約も済ませていた。

「(昨年所属した)カルガリーは、クビになっちゃったんですけどね」

100803nagasaka022010年、アメリカでプレーすることを考えていた長坂だったが、最終的にBCリーグ・新潟アルビレックスでプレーする意志を固め5月中旬に入団した

 マイナーとはいえ、すでにプロ9球団を渡り歩いた男が、人生初の解雇を味わった。
 と言っても、彼はそれを悲観的に捉えるわけでもなかった。むしろマイナーリーガーには珍しく、毎年のように所属球団から契約継続のオファーがかかっていた。彼はよりよい契約とプレー環境を求めて移籍を繰り返していたに過ぎない。今回の移籍もたまたまの結果でしかないようだった。
 昨年初めて経験した日本球界。だが、思いのほか心地悪さを感じることはなかった。
 長坂が抱き続けていた日本野球のイメージであった「過剰なタテ社会」と「横行する権威主義、経験論」というマイナスのそれは、独立リーグという場にはほとんどなかった。
 そもそも、この場に集う若者の多くはそのような因習になじめなかった、いわば長坂と同じ型の人間達だった。

 このオフはカナダでのシーズン後、所属した長崎セインツ球団のオーナーである地頭薗哲郎が経営するカフェで店員として働いた。

「せっかくオーナー(地頭薗)も声かけてくれたしね。これも縁かなって。(実家のある)横浜に帰っても、仕事見つかるかどうかわかりませんしね。こっち(佐世保)だとトレーニングもできるし、家賃のセインツの選手ならタダでいいってことになりましたしね。それにあったかいんですよ」

 アルバイトをしながら、夜は球団が契約するジムできたるシーズンに備えた。休日には米軍基地のグラウンドを使ってキャッチボールもできた。
 正月も佐世保で過ごした長坂が、横浜に戻ったのは1月も末になったころだった。このころには、次のシーズンに向けてユマとの契約も済ませていた。
 しかし、球団からビザが下りたという連絡がいつまでたっても来ない。そのうち4月が過ぎ、開幕が近づいてきた。

「とりあえず、行こうっていうことになって。まあ、行ってみて最悪90日(ビザなし渡航の上限滞在日数)が過ぎるまではできるかなって。あんまりビザにこだわっていても野球する場所なくなっちゃいますしね。明日、航空券買いにいくかっていうときに電話あってんですよ。『長坂さん、うちでどうですか? 保証はできないけどトライアウトしますよ』って」

 電話の主は、BCリーグ新潟でコーチ兼任の主砲、青木智史だった。青木とは、かつてアメリカ独立リーグの日本人チーム、サムライ・ベアーズで一緒だった。
 本場の野球の魅力は捨てがたがったが、長坂は日本でのトライアウトを選んだ。前年のシーズンが終わった10月からマウンドには立っていなかったが、オフのトレーニングとリハビリで、体調はここ数年になくいい、と長坂は感じていた。それに、昨年秋の長崎でのプレーを通じて、「そろそろ日本にもどろうかな」という気持ちが少しずつ芽生えていたのかもしれない。
 いきなりのマウンドで、しかも打者相手の実戦登板だったが、長坂はトライアウトに見事合格した。年々レベルが高くなってきているとはいえ、体調の戻った長坂の投球は日本の独立リーガーが簡単に攻略できるものではなかった。開幕から1カ月経ったBCリーグに参戦した長坂は主戦投手として0点台の防御率を維持した。
 昨年はじめて日本でプレーしてどうだったか? 今一度尋ねた。

「長崎では、もうプレーするつもりはなかったです。長崎が終わった時点では、日本でもいいかなって思ったけど、チーム見ててもなんかちょっと違うな、という感じもしてましたし」

 昨年秋、日本の独立リーグで初めて日本球界に触れた長坂だが、環境の違いに戸惑い、わずか2週間という短い期間ではその実力を発揮することはできなかった。北米野球の魅力から抜け出すことはいまだできていないが、そろそろベテランに差し掛かった年齢がそうさせるのか、母国日本でのプレーにも魅力を感じるようになっていた。
 実は長崎でのシーズン後、青木には一度BCリーグでのプレーを打診している。このときは、各球団ともすでに来シーズンの陣容が固まっていたので長坂の希望は叶わなかったが、自身のアメリカ行きが頓挫したことと、新潟の投手不足という事情から、長坂は今年も日本でプレーする流れとなった。

「選手の意識は高いですよ。みんな一生懸命ですしね。そりゃ、向こう(北米)に比べればまだプロ意識が足りない感じはしますけど」

100803nagasaka03球団マスコットとツーショット。BCリーグでは38回1/3を投げて防御率0.94と格の違いを見せつけている

 発足して4年目になるBCリーグだが、ようやく選手たちにも「プロ意識」が芽生えてきたようだ。このリーグを本当の意味で「プロ野球」にしたい。そういうリーグ全体の向上心が、長坂をリーグに招いたのかもしれない。長坂もようやく自分の終の棲家を見つけたようで、新潟で今後もプレーを続けたいと考えている。
 しかし、やはり「向こうの」野球の魅力には勝てないようだ。

「この間マックさん(マック鈴木/今シーズンはメキシカンリーグで活躍)と連絡とったんですよ。去年(一緒にプレーしたカルガリーで)教えてもらったことをここで試してますよって。マックさん、冬もウィンターリーグで投げてるんですよね」

 と語る長坂の目は遠くを見ていた。

 ベースボール・デイアスポラ、長坂の旅はまだまだ終わらない。

(完)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。この夏、再び中国へ赴く予定。 

2010-06-23

ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて クラウディオ・フクナガ編

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏がお送りする、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)、第2弾は40歳となった昨年、メジャーリーグに挑戦した際の高橋建投手(広島)、そして第3弾は、アマチュア時代に一度第一線から退きながらもアメリカで復帰、多くのチームを渡り歩いたのちに今年はBCリーグの新潟アルビレックスでプレーしている長坂秀樹(新潟アルビレックス)が登場しました。

 そして今回は、はるか地球の裏側のアルゼンチンから来日し、関西独立リーグ・紀州レンジャーズでプレーする日系人・クラウディオ・フクナガ選手です。果たしてどういう経緯でここまでたどり着いたのか? それは読んでのお楽しみです。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
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★地球の裏側からやってきたドリーマー─── クラウディオ(紀州レンジャース)

 今年初取材の関西独立リーグ。韓国から参入したコリア・へチのホーム球場は、大阪・奈良の境にそびえる生駒山の上にある。急遽決まった参戦ということで球場の確保ができず、練習だけでなく、試合もそのほとんどをこの辺鄙な球場で行うことになった新球団。今年もこのリーグの苦闘は続いているようだ。
 平日のナイターとなれば、帰りの足は車しかなく、入口でチケット販売をしていたボランティアスタッフによると、観客15人という日もあったそうだ。おそらくこれはプロ野球興行の世界最小の観客数だろう。
 試合の方は、ようやく日本での生活にも慣れてきたコリアが16安打19得点の大爆発。元韓国プロ野球選手3人、内1人はNPBでのプレー経験を持つというコリア打線はリーグ最強といってよい。と言っても16四球を出した紀州投手陣もふがいなかったが。

Claudioアルゼンチン出身の日系人、福永満クラウディオ選手。その野球人生のあゆみとは!?

 その紀州のメンバーに地球の裏側アルゼンチンから日本野球に挑戦しにきた若者がいる。クラウディオ・フクナガ内野手24歳だ。
 1986年に首都ブエノスアイレスで日系人の両親から生まれた彼は10歳の時野球と出会った。ラプラタ日本人学校で祖国の人気スポーツと出会った彼は、みるみる頭角をあらわした。
 アルゼンチンと言えば、サッカーの強豪国。彼の心もこの国技とも言えるスポーツに傾いたが、意外なことにアルゼンチンではサッカーの方が金のかかるスポーツらしく、小さな事業を行う両親に気兼ねして、結局野球を選んだ。その後、成長するにつれ、日系人のクラブチームなどでプレーを続けるが、野球の盛んでないこの国では、さらなるレベルアップは見込めなかった。16歳になった頃には親の仕事の関係で外国を転々とするようになり、野球とも縁が遠くなってしまい、アルゼンチンに帰って大学に進む頃になると彼は野球から離れ、勉学に専念するようになった。
 それでも次なるステップに向かってトレーニングだけはしていた彼に朗報が入った。MLBによるトライアウトがこの野球不毛の地で実施されたのだ。
 MLBは現在人材の獲得網を全世界へ広げている。南米各地にもキューバ人スカウトを派遣して、ダイヤの原石探しをしているのだが、彼はここでスカウトの目にとまり、2005年12月、ワシントン・ナショナルズと契約を結んだ。
 大学を中退して、飛び込んだ夢のアメリカプロ野球だったが、現実は甘くはなかった。月給は800ドル。その上、未熟なルーキーに、球団はアメリカの土を踏ませることはなかった。2006年とその翌年のシーズン、彼のプレーの舞台はドミニカに用意されることになった。最初のシーズンは、野球経験の浅い彼にチームは134打席を与えてくれたが、1割の打率しか残すことができず、35の三振が穴の多さを際立たせた。次から次へと原石が送り込まれてくるアカデミーにあって、2年目は彼の出場機会は激減した。結局、ナショナルズは彼にアメリカでのプレーの場を与えなかった。2年目のシーズンの終わった10月、彼は解雇を言い渡された。
 それでもレイズが彼の素質を見逃さず、2008年シーズンはベネズエラのアカデミーで過ごした。再びチャンスを得た彼は、このシーズン、プロ初ホームランも記録した。この球団が彼の素質を買っていたのは、サマーリーグ終了後も、ドミニカで行われる教育リーグに彼を派遣したことが示している。そして2009年シーズン、ついに彼は野球の母国の土を踏むことになった。フロリダで行われるガルフコースト・リーグに参戦した彼の月給は1200ドルに増えていた。
 しかし、同じルーキー級とはいえ、アメリカ本土で行われるリーグ戦は、カリブでの競争に勝ち抜いたダイヤの原石と北米の野球経験豊富な選手の集うレベルの高いものである。こと投手の球の速さ、野手のスピードにおいては現在所属している関西独立リーグ以上だったと彼も回想するこのリーグでは、彼は力を発揮できなかった。結局アメリカでの夢への挑戦は1年で終わった。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。アルゼンチンに帰国する度、日本の大学での指導経験(早稲田大コーチ)のある日本人が、アメリカでダメでも日本に来ればいいと彼に声をかけてくれていたが、それが現実のものになった。ここ数年でその数を増やしている日本の独立プロ野球チームだが、どこも選手不足は深刻となっており、客を呼べるプロとしてのプレーレベルを保つため外国人選手にも門戸を拓くようになってきている。2009年秋、彼は自らのルーツの地、日本の土を踏んだ。トライアウトの結果は、見事合格だった。
 今季、彼は紀州レンジャーズの準レギュラーとしてセカンド、外野を守り、ここまで26試合で .275という成績を残している(6月21日日程終了時現在)。

 日本での生活について、困ったことは特にないとクラウディオは言う。母国語のスペイン語はほとんど通じないものの、日本語には幼いことからなじんでいるので、日常生活は問題ない。インタビューのはじめ、ぶっきらぼうな印象があったが、それが日本人とは同じように話すことができないことが理由であることは、私が片言のスペイン語を口に出すと、途端に表情が緩んだことからわかった。
 昨年アメリカで覚えた英語は、日本に来てだいぶ忘れてしまったと笑いながら話す。これからは、彼と話すときにはこの3つのチャンポンが1番いい方法だろう。コリアの監督、パク・チュルウは、韓国人の若者が日本の独立リーグに参加することの利点の1つに日本語の習得を挙げていたが、そのほとんどが上級のプロリーグへの夢を絶たれる厳しい現実を考えると、外国からはるばる独立リーグに挑戦した若者が日本語をマスターして帰ることは、彼らの今後の人生においても有意義なことには違いない。
 クラウディオ自身、シーズン終了後には24歳になる自身の年齢を考えると、いつまでも野球漬けの毎日を送るわけに行かなくなってくることをわかっている。MLBと契約せず、そのまま大学に行っていればすでに卒業して働いている年齢に差し掛かっているのだ。そろそろ母国・アルゼンチンに帰って、父の事業を継ぐべく、ビジネスの修行もせねばならない。彼にとって関西独立リーグは最後のチャンスなのである。
 インタビューの最後に、日本の生活でひとつだけ困ったことがあると、笑みを浮かべて彼は言った。

 「肉が食べられなくて困っているよ。アルゼンチンでは週に4回はカルネ・アサド(ビーフステーキ)を食べてたからね。おかげで体重がずいぶん減ってしまったよ」

(完)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。

2010-06-11

ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(最終回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏がお送りする、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)、第2弾は40歳となった昨年、メジャーリーグに挑戦した際の高橋建投手(広島)が登場しました。

 そして、今回から第3弾として、アマチュア時代に一度第一線から退きながらもアメリカで復帰、多くのチームを渡り歩いたのちに、長崎セインツで日本復帰。今年はBCリーグの新潟アルビレックスでプレーしている長坂秀樹(新潟アルビレックス)編がスタートです。

 今回がいよいよ最終回となります(1回目はコチラ、2回目はコチラです)。アメリカやコロンビアなどでプレーした長坂投手がその後行き着いたのは…。それは、本文を御覧下さい。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
 ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

◆そして、現在別途継続中
 コロンビア野球紀行
http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html

      

★海外でプレーを続けた長坂秀樹

 NPB球団のでプレーする機会が得られなかった長坂は、その後もアメリカで投げ続けた。
 2009年は再びゴールデン・リーグに復帰、カナダのカルガリーで7年目のシーズンを終えた。

 長坂がNPBのトライアウトも受験したのは一度や二度のことではない。年によっては、ある球団が隠し球としての獲得を示唆し、それがスポーツ紙の一面で報じられたこともある。しかし、結果的に日本の球界はエリートコースを自ら外れた異端児に扉を開けようとはしなかった。

「(トライアウトなどでは)抑えましたけどね。声はかからなかったです。まあ、こっちは曲がりなりにもプロでずっとやってきてましたからね。ポテンシャルだけでやってきた経験の浅い彼らを抑えるのは当然ですよ。彼らもチャンスを活かせば伸びたかもしれないですけどね」

 彼の言葉からは、厳しいアメリカでのマイナー生活に対する誇りと、せっかくの恵まれた体と身体能力をプロの舞台で活かしきれなかったトライアウトを受験する元NPB選手に対するもどかしさが感じられた。

 しかし、9月初めに北米でのシーズンが終わると、日本でプレーする機会は突如として訪れた。かつてのチームメート、根鈴雄次の誘いもあって、四国・九州アイランドリーグ・長崎セインツでのプレーすることになったのだ。
 波乱のプロ人生を歩んできた彼にとって、初めて身を投じた日本の独立リーグはどう映っただろう。ここにいる選手は、ある意味NPBから目もかけられなかった選手である。そんな彼らが、集う夢への舞台とは?

「いいか悪いかはわからないけど、恵まれているとは思いますよ」

 アメリカでのプレー経験のある多くの者が口にするが、日本の独立リーグの選手からはまだまだ必死さが足らない。確かにシーズン途中の解雇もあるが、アメリカに比べればそれもまだまだ生やさしいもので、「本来プロにはいてはいけない選手」でも日本では、平然と「球遊びを」楽しんでいる。

Nagasaka02海外での経験を踏まえ、日本の独立リーグについて話す長坂選手

「向こうでは、試合前ベンチで泣いているやつも見ましたよ。本人も周りも雰囲気でクビだってわかるんですよ。でもそういうのって、ここの人たちに言っても、わかんないですしね。経験してないんだから」

 いつ収入を失うわからないところで、最大のパフォーマンスを発揮し、その上で、野球を楽しむ。これが彼のプロフェッショナリズムであり、日本の独立リーガーがよく口にする「野球を楽しむ」には、クビの不安と戦うという本来のプロの心構えが抜け落ちているということだろう。

 野球選手のキャリア後の生活不安の解決を叫び、もし自分にもう少し生活の保障があったなら、もっと大胆にプレーし、成功を収めたと主張する元プロ野球選手の話をしたところ、彼はこう答えた。

「まあ、人それぞれですけどね。そういう人は消えていくのが、プロの世界じゃないですか?」

 彼がプロ野球選手として手にした月給の最高は2000ドルだったという。その彼が口にする「甘い球を投げるのは、お金をあげるようなもの」という言葉は、ハングリーさと縁の遠い日本人に強く突き刺さる。
 
 長坂の日本でのシーズンはあっさりと終了した。シーズンも押し迫った9月後半に入団した彼の公式戦での登板は、たった2試合。3イニングを投げただけに終わった。前期優勝を果たしているチームにとっては、リーグチャンピオンシリーズに向けての切り札としての調整登板だったのだが、肝心のシリーズは後期に入って急速に力をつけた強力打線が売り物の高知に3タテを食らってしまい、長坂の登板機会も1度きりしかなかった。しかも3点リードの終盤の大事な場面に登場し、いきなりの2四球から同点ホームランを献上するという最悪の結果に終わった。これで息を吹き返した高知は延長戦でサヨナラ、このままの勢いで長崎での試合もものにし優勝、長坂は助っ人の役割を果たせずに2009年のシーズンを終えた。

 彼の職業はプロ野球選手である。しかし、通常その言葉から連想されるような華やいだイメージは彼のエピソードからはうかがえない。まさに浮き草稼業をおくっている長坂だが、昨年取材した際には「32歳になる来年もプレーするつもり」と言い、事実、今季はBCリーグ・新潟アルビレックスでプレーを続けている。
 日本でサラリーマンをしていた方が、楽に暮らせたのはわかっている。しかし、大学時代不完全燃焼に終わった夢の続きを彼は今もなお探している。たとえ、わずかであっても金銭をもらってプレーをするプロの舞台に、彼はアスリートとしての誇りを賭け、今年も投げ続けている。
 日米を問わず、ふと訪ねた小さな田舎町にプロ野球チームがあると聞いてみたら、スタジアムをのぞいて欲しい。そのブルペンにいきのいい球を投げる髭面の小男がいればその背中にはきっと「NAGASAKA」の文字があることだろう。

    

(完)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。

2010-06-04

ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第2回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏がお送りする、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)、第2弾は40歳となった昨年、メジャーリーグに挑戦した際の高橋建投手(広島)が登場しました。

 そして、今回から第3弾として、アマチュア時代に一度第一線から退きながらもアメリカで復帰、多くのチームを渡り歩いたのちに、長崎セインツで日本復帰。今年はBCリーグの新潟アルビレックスでプレーしている長坂秀樹(新潟アルビレックス)編がスタートです。

 全3回予定の今回は第2回目。前回の第1回目はコチラです。では、御覧下さい。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
 ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

◆そして、現在別途継続中
 コロンビア野球紀行
http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html

      

★海外でプレーを続けた長坂秀樹

3年のブランクも、渡米前にトレーニングをしていたこともあって、日本の大学野球のトップレベルでプレーしていた彼の独立リーグでのプレーのハンデになることはなかった。指導者を前にした「御前投球」で見事一発合格をもらった。独立リーグでも、比較的レベルの低いフロンティアリーグのクックカウンティに入団が決まった。サラリーマン時代の4分の1になる月500ドルのギャラは気にならなかった。
 それでもプロ野球選手としてギャラが多いに越したことはなく、シーズンが変わるたびに、自分をより高く買ってくれる球団を探して渡り歩くことになる。
 アメリカでも共にプレーし、昨年、長崎セインツでもチームメートとなった根鈴雄二は舌を巻く。

「マイナーリーグで何年もやってるようなやつは、大体が1度や2度クビを経験してるもんすよ。だけど長坂はこれまで1回もクビになってませんからね」

 エージェントをほとんど雇うことなく、独立リーグを渡り歩く長坂にはある種の世渡りのうまさがあるようだ。

「シーズン終わりごろになると、大体わかるんですよ。来年もいけるなって。そういう時は、相手チームの監督なんかから誘いが来るんですよ。ウチにこないかって。それでいくらくれるのって聞いてそっちの方がよければ、次の年はそのチームに行くんですよ」

 長年の海外暮らしで日常会話は英語で問題ないという根鈴も、契約など込み入った話になると英語には自信がないという。短期間の間に、契約の交渉を自分でやってのける長坂は本来的に頭がいいのだろう。彼の頭の回転がもう少し遅いか、運動神経がもう少し鈍ければ、今頃彼は平凡なサラリーマン人生を送っていたに違いない。あるいは、体格がもう少しよければ、今頃彼の姿はNPBのマウンドにあったかもしれない。NPBという日本球界最高の舞台に手が届くところ位置にいながら、その性格のよさと純粋さから、野球エリートのはしごを踏み外し、しかし、その生まれつきの要領のよさは平凡な人生を歩むことを許さなかった。グローバル化の進む時代は、アメリカの独立リーグという新興のプロ野球と長坂を結びつけ、今なお彼は太平洋をまたにかけてプレーしている。

 コロンビアへ渡ったのは2004年の冬。この年プレーしたリンカーン(ノーザンリーグ)のチームメート、ピート・ローズJr.の紹介だった。後ニカラグアでもプレーする大リーグのスター選手の2世は、冬場のトレーニングの場を求めてコロンビアにも渡っていたのだ。契約したバランキージャ球団の監督が日本でのプレー経験のあるマイク・イースラー(元日本ハム)であったことも、偶然ではなかったのかもしれない。
 契約などはエージェントがやってくれたが、さすがに南米でのプレーとなると多少の不安もあったと長坂はいう。

「むちゃくちゃ治安の悪いところって思ってましたからね」

 アンデス山中にある首都ボゴタからリーグの行われているカリブ海沿岸までは、確かにゲリラなどが出没する危険がある。この国で頻発する外国人の誘拐は大体がこの間でおこっている。そのため、コロンビアへ渡る外国人選手は、そのほとんどがフロリダから直接カリブ海沿岸部の都市に入国する。長坂も多少の不安を抱えながらも、マイアミからバランキージャに入った。

「でも、着いてみると全然。問題なかったですよ」

Nagasaka02アメリカ独立リーグやコロンビアなど、海外でプレーした経験を語る長坂選手

 コロンビア有数の大都市でのアパート暮らしは、彼にとって思いのほか快適なもので、アメリカでは800ドルのギャラも1100ドルに大幅アップし、オールスター戦でも勝利投手になるなど活躍、コロンビアでのシーズンは彼にとって思い出深いものとなった。時間というものがないのかと思われるような南米特有のおおらかさもまた、彼にとっては異国情緒のように感じられた。
 しかし、このコロンビアでの冬のシーズンも、リーグの「オーガナイズド・ベースボール」(MLBとその傘下のマイナーリーグ)からの選手獲得の方針から、この年限りとなった。
 次のシーズン、長坂は初めて日本人チームでプレーする。といっても日本球界に入ったわけではない。新興のゴールデン・リーグが興行の目玉としてつくった「サムライベアーズ」に加わったのだ。
  低迷するチームの救世主として途中加入した長坂は、それまでの経験を存分に活かし、8勝6敗防御率3.26という好成績を挙げて、このシーズンのオフ、複数の日本球団のテストを受ける。しかし、NPBの打者相手にいくら好投を演じても、声がかかることはなかった。その理由は、当時すでに26歳になっていた年齢と、168センチという身長、そして大学野球を途中でやめたという経歴だった。これらの理由は、彼が見せたピッチングとは何の関係もないものだった。

    

(次週に続く)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。

2010-05-21

ベースボールディアスポラ -長坂秀樹(新潟アルビレックス)編-(第1回)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏がお送りする、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)、第2弾は40歳となった昨年、メジャーリーグに挑戦した際の高橋建投手(広島)が登場しました。

 そして、今回から第3弾として、アマチュア時代に一度第一線から退きながらもアメリカで復帰、多くのチームを渡り歩いたのちに、長崎セインツで日本復帰。今年はBCリーグの新潟アルビレックスでプレーしている長坂秀樹(新潟アルビレックス)編がスタートです。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
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 コロンビア野球紀行
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★長坂秀樹・未曾有の野球履歴

   現在、このブログでも連載継続中の「コロンビア野球紀行」を見て、初めてコロンビアにプロ野球が存在していることを知った人も多いと思うが、かつては日本人選手も在籍していた。2009年は北米独立リーグ・ゴールデンリーグのカルガリーに所属、シーズン終了後には、アイランドリーグ・長崎セインツでプレーし、今年は新潟アルビレックスでプレーする長坂秀樹投手もそのひとりである。彼は単にコロンビアリーグに在籍しただけではない。オールスター戦で勝利投手にもなったコロンビア球史に残る名選手なのである。
 今では彼の名を知る人はほとんどいないが、東海大三高時代には甲子園に出場。小柄な体格ゆえに高卒でのプロ入りはならなかったが、当時からその速球はスカウトに注目されていた。そして、東海大進学後は2年次に主戦投手として活躍し、首都大学の春季リーグ戦で優勝。明治神宮大会準優勝に貢献した。
 しかし、ここで「子供のときからそうだった」という一言多い性格が災いする。日本の体育系クラブでは当たり前の補欠選手への待遇を巡って指導者ともめてしまう。長坂から見れば、野球をしたくて入った大学で、練習もさせてもらえず雑用ばかりさせられる仲間の待遇に我慢がならなかったのだ。所詮アマチュアのクラブなのに、せっかく大学まできて授業にもろくに出られず、挙げ愚の果ては草むしり。レギュラーでVIP待遇の自分のことよりも、仲間に対する不条理な仕打ちに彼の正義感は沈黙を許さなかった。
 が、プロアマ問わずこういう正義感は日本の球界では許しがたきタブーなのである。この国では、「体育会系」という言葉は、アスリートというより組織に従順な人間に冠される枕詞なのである。
 結局、彼は2年次のシーズンの後、名門野球部を退部する道を選ぶ。彼に目をつけていたプロのスカウトは、それをなじったが、今に至ってもこの選択を彼は悔いてはいない。あの状況で野球を続けていても、野球を好きでいられるかわからなかったからである。むろんその一方で、この選択は彼からNPBへの道を奪うことになる。

Nagasaka02アマチュア時代に紆余曲折を経て、一時は野球から離れた長坂選手。その後、渡米を決意する

 だが、長坂にとってNPBはあこがれのひとつではあっても、なにが何でもたどり着きたい目標でもなかった。それが好きだから野球をするのであり、楽しめないようならプレーを続ける意味がないからである。
 「大学で最後までやってドラフトで声が掛かってても、プロには入らなかったと思いますよ」という彼にとって、つまらない野球を続けなかったことへの後悔は今もない。
 退部後、彼は普通の大学生としてキャンパスライフを送り、卒業する。特に勉強が嫌いだったわけでもなく、英語と国語は得意だったという彼にとって、普通の学生として卒業単位を取ることはさほど困難ではなかった。
 そしてそのまま就職活動へ。野球以外に特にしたいこともなく、実際のところあまり身が入らなかったのだが、就職氷河期という時代にも関わらず、面接した2社から内定をもらい、宝石店に正社員として採用される。
 このまま会社員を続けていれば、今頃彼は支店の1つくらいは任されていただろう。独立リーガーになった今でも、オフのアルバイト先では必ずといっていいほど若いアルバイトの指導者役を任され、その後「是非正社員に」というオファーを受けるほどである。話していても、生来の頭の回転のよさ、人柄のよさが十分に感じられる。「野球をやっていた」と聞かなければ、それ程の実力があるとは気づかないだろう。それでも彼は、バイトとしては破格の待遇の月40万円の月給を捨てて、春になれば海を渡る。
 その彼の人生を大きく変えたのは、高校時代の同級生だった。その同級生が夢を追ってアメリカへ渡り、独立リーグでプレーするのを見て、眠っていた野球魂を呼び起こされた彼は、当時手取り月20数万円の月給と就活生がのどから手が出るほど欲しがっていた正社員の身分を捨てて、海を渡った。

 別にメジャーで活躍できるという自信があったわけではなかった。ただ、野球をしてきたものとして、一度はアメリカの、それも頂点のメジャーのベースボールを経験してみたいという競技者としての興味が湧いてきたのだ。

        

(次週に続く)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。ゴールデンウィークには中国へ行き、現状の野球事情を見てきた。

2010-04-12

カリビアン・ウィンターリーグ紀行《プエルトリコ編》」 -番外編-

 『野球小僧』4月号に登場した「カリビアン・ウィンターリーグ紀行《プエルトリコ編》」読んでいただいたでしょうか?
 「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行は、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」など、当ブログでいくつも公開され、すっかりおなじみとなっています。その流れから、昨年末に行かれたプエルトリコの野球紀行文が4月号で掲載されるに至りました。

 今回はその番外編として、誌面に掲載しきれなかったエピソードをご紹介します。

 なお、5月10日発売『野球小僧』6月号では、続編として、プエルトリコからその足で訪問したドミニカ共和国の紀行文を掲載します。題して「カリビアン・ウィンターリーグ紀行《ドミニカ編》」です。そちらの方も、ご期待ください。

 それでは、今回の番外編をどうぞ!

      

▼石原豊一さんの過去記事のリンクはコチラ
海外紀行編

 ①イスラエル野球紀行 →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 ②メキシコ・ウインターリーグ紀行 →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
 ③ニカラグア野球紀行 →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

独立リーグ編

 ⑥北信越BCリーグ観戦記(北信越BCリーグリンク内) →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat588962/index.html
 ⑦長崎セインツを救え(四国・九州アイランドリーグリンク内) →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat81718/index.html

ベースボールディアスポラ(野球離散民)を訪ねて(⑧前田勝宏編、⑨高橋建編)
 →http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat5680355/index.html

  

 

▼知られざるウィンターリーグ~プエルトリコ番外編

 プロ野球2010年シーズンも開幕した。今年も巨人のエドガー・ゴンザレスを筆頭に、ラテンアメリカからたくさんの助っ人が新たに日本球界に身を投じる。彼らの多くは、メジャーリーグのオフシーズンに行われるウィンターリーグでの活躍が認められて、日本プロ野球との契約にこぎつけている。そのことは、毎年この季節になると新聞上などで、ファンに知らされているが、実のところ、報道する側もこのリーグについての知識は乏しいようで、チーム名その他、時折誤った記述がなされていることもある。
 世界の野球を見つめ続け、『世界野球選手名鑑』というおそらく世界で唯一のワールドワイドな野球名鑑を毎年発行し続けている『野球小僧』のライターとして、この状況を捨ておいてはいけない。
 なんとか日本の野球ファンにこのタレントの宝庫を紹介したいと、この冬も筆者はカリブ海へと飛んだ。

12月23日 アレシボ
 アレシボは、北海岸中部に位置する。昨夜観戦した町、アグアディージャを朝一番、7時に出発した乗り合い自動車・プブリコは、この町を経由せず、途中で降りる羽目になった。別の車をつかまえてたどり着いたこの町は、すっかり寂れていて、セントロに唯一あるホテルは、他の町と同じく下宿屋に替わっており、旅人を受け入れてはくれなかった。
 島中から若者が米国本土に出稼ぎに出るプエルトリコにあって、地方都市の衰退は著しく、この町の中心からはすっかり若者の姿がなくなっている。

「みんな郊外かサンファンに出て行ってしまったよ。すっかり年寄りの町になってしまった」

Arecibo事務所を訪れると、アレシボ・ロボスのオーナー、クルス・ベンザン氏が出迎えてくれた

 町にあったベースボールカードショップの老店主は、品薄をわびながら、首都のショッピングセンターに行けば、この島出身の選手のカードが並んでいると教えてくれた。

 スタジアムには、かつてのドジャースで活躍した、ルイス・オルモの名がつけられている。事務所を訪ねると、オーナーのクルス・ベンザン氏が出迎えてくれた。
 この町に球団ができたのは、1961年のことだという。チーム名の「ロボス」は、狼の意味である。かつて大洋ホエールズで首位打者を獲得したフェリックス・ミヤーンが指揮をとったこともあるこの球団は、2005年に球場の賃貸料交渉が決裂してこの町を去ることになったが、2008-09年のシーズンに戻ってきた。頻繁に繰り返すフランチャイズの変更は、不入りに悩むプエルトリコ野球の現状を反映している。

 プエルトリコ初の日本人選手は、実はこのチームでプレーした。マリナーズやオリックスでプレーしたマック鈴木が1997-98年シーズンをここで過ごしている。
 彼に関する裏話をオーナーが披露してくれた。
 プエルトリコにやってきたマックは、労働ビザを持っていなかったらしい。マイナーや独立リーグでは、実のところ、こういうケースは珍しいことではないそうだが、トラブルを恐れた球団は、彼との契約書の金額欄に「1$」と書き入れ、彼のリーグ参加を事実上「労働」ではないとしたという。オーナーはウィンクして右手を机の下に回した。無論ギャラは裏で支払ったという意味だ。
  オーナーズルームにいたユニフォーム姿の男は、コーチをしていると言った。親日家らしく、なにかと話しかけてくる。選手としては大成せず、2A度止まり。4年前に現役を終えたそうだが、99年に在籍していた独立系のフロンティア・リーグに在籍していた時、テレビの企画で選手として参加していたタレントの松村邦一さんとルームメイトだったという。

 「マツムラ元気かな?」

 人懐こい笑顔を見せながら、現役時代唯一テレビに自分の映像が流れたときのことを想い出していた。

 この日の先発は、元ダイエーのヘクトール・メルカド。彼も他の多くのプエルトリカン同様、現役メジャーリーガーとして期待されて来日したものの、満足いく成績を残すことはできなかった。
 メルカドは人物的には実に親切で、私にも何かと世話を焼いてくれた。また、この夜は投球もまずまずで、序盤は鋭く縦に曲がるスライダーと、これと同じ軌道で落ちるチェンジアップでロボス打線を翻弄、先発としての役割を果たし勝利投手になっていた。 

Cruiseコーチのイバン・クルーズ。阪神、中日などでプレーした経験をもつ

 それにしても、この国のプロ野球は実にのんびりしている。試合中もカメラマンはフィールドに残ってベースコーチのすぐ後ろで撮影している。
 一塁ベースコーチは、イバン・クルーズ(元中日、阪神)。試合前からなにかとちょっかいをかけてくる陽気なプエルトリカンだ。プレー中もている。プレー中のフィールドでも審判と雑談に興じ、このカメラマンやランナー、はては敵チームの野手と無駄話をしている。
 私が15年前、メキシコで野球を見たときも、試合中のフィールドでマイク片手に実況していたラジオアナウンサーを見てたまげたものだが、いいにつけ悪いにつけ、彼らは大らかだ。
 オーナーら経営者と選手、ファンとの距離も近く、その家族的な雰囲気的は、日本や北米の独立リーグのそれに似ている。ラテンアメリカでは、クリスマスイブとクリスマス当日は完全休養日で試合がないのだが、この夜はクリスマス前最後の試合ということで、オーナーからのプレゼントとして試合後、パーティーが催された。
 客の去ったスタンド下の通路にはテーブルがしつらえられ、豚の丸焼きをメインディッシュにした料理がふるまわれた。選手はもちろん、球場スタッフから、売り子までチーム運営に関わっている者は皆招待されている。オーナーのチームに対する愛情がにじみ出たような、素朴だが、こころ温まる宴だった。

 この夜は遅くまで、メレンゲのバンド演奏が球場に響きわたっていた。

<終>

   

         

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。09年末にプエルトリコ、ドミニカのウィンターリーグを観戦。『野球小僧』4月号『野球小僧世界野球選手名鑑』(ともに発売中)にて、そのとき得た情報を記事にしている。次号『野球小僧』6月号では、ドミニカ共和国を訪問した際のエピソードが掲載される予定。

2009-12-22

ベースボールディアスポラ -高橋建編-(後編)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏が、今年の6月~10月にかけて掲載された、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)の野球人生について綴りました。
 今回はいよいよその第2弾としまして、14年間の国内プロ生活から一転して今年40歳にしてメジャーリーグを目指した高橋建投手(メッツ3A)が登場。アメリカでインタビューした内容をもとに前後編構成でお届けします。今回が後編です。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
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 ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて

      

★引退について

 高橋に、そろそろ意識せざるをえないだろう引退後のビジョンについて聞いてみた。近づきつつある現実を前に、彼は一瞬ロッカールームの天井をみつめこう言った。

「わからないですね。超一流だったらともかく、僕らくらいじゃ、解説者のクチがあるかどうかもわからないですしね。できれば、今こうやってアメリカでやっていることも生かせるように野球関係の仕事がしたいですけど」

 世間で言われているほど、プロ野球選手の暮らしは華やかなものではない。このマイナーリーグのスタジアムのロッカーの片隅に座っている男の姿は、我々とたいして違わないそれであった。今は3Aにいるものの、彼はれっきとしたメジャーリーガーである。そんな彼でも、数年後には確実にやってくる引退の二文字の前では、家族を持つただの中年男でしかない。
  そういうこと(引退後)も考えて海を渡ったのではないか、つまり一度メジャーを経験していると、解説の仕事も取りやすいのでは、という私の問いに対してもにべもなくこう答えた。

「ホント、引退後のことなんて考えてないですよ。そろそろだし、考えないといけないんですけど。黒田とかならべつだけど、いまどきメジャー行ったからって解説の仕事があるかどうかもわからない。広島に住むか、(故郷の)関東に戻るかさえ想像できない位ですから。ひょっとしたらアメリカに住むかもしれない。さっきも言ったように35からは、ホント1年1年っていう感じでやってきてますから、まだ来年どうしようとかさえ考えていないですよ。アメリカで続けたいっていうのもあるけど、こればっかりは雇ってくれないとどうしようもないですからね」

Takahashi_ken03「引退後のことはまったく考えていない」、「1年1年という感じ」と話した高橋建投手。年齢を感じさせないピッチングスタイルに魅せられるファンも多い。来年もぜひ元気な姿を見せて欲しい

 来年のことにについても、彼はわからないという。

「ホント、最近は1年1年という感じでやっているので、来年のことも今シーズンが終わってからですね。こっちでやりたい気持ちもあるけど、(契約)相手があることなので、自分の気持ちだけでなんとかなるものでもないですしね」

 こういう彼のまなざしは再び天井を見上げていた。しかし、そのまなざしからは、彼がいまなお競技者としてさらなる向上心があることがうかがえた。

  インタビュー後の8月24日、高橋は再びメジャーに昇格した。しかし、出番は決して多くはなく、シーズン後の10月20日、メッツから契約を解除された。
 来年は彼も41歳、現役を引退してもおかしくはない年齢である。しかし、あの日のコロンバスでの彼の表情には野球に対するあくなき向上心がみなぎっていた。

 来年の春、どこかで高橋はマウンドに立っているに違いない。それがどこかはわからないが、ベースボールディアスポラ高橋は野球がそこにあるかぎり、ユニフォームを身にまとっていることだろう。

(終わり)

   

編集部注:12月20日の報道で、高橋選手が古巣の広島東洋カープに復帰する方向で調整していることが明らかになりました。来季の高橋選手の活躍にも期待したいと思います。

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。現在、プエルトリコ、ドミニカへ赴き、ウィンターリーグを観戦中。11月10日発売『野球小僧』12月号では、日本の独立リーグに対する今後の方向性について、ハリケン氏の質問に石原氏が答える形式で提案する「世界の野球を見聞してきた研究者が語る日本野球 構造改革の提言 ~人、金、環境…できることはまだたくさんある!」や、「ワールドベースボールレポート」にてカナダ野球の執筆を担当。

2009-12-11

ベースボールディアスポラ -高橋建編-(前編)

 野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏が、今年の6月~10月にかけて掲載された、「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。第1弾は世界を渡り歩く大ベテラン・前田勝宏投手(明石レッドソルジャース)の野球人生について綴りました。
 今回はいよいよその第2弾としまして、14年間の国内プロ生活から一転して今年40歳にしてメジャーリーグを目指した高橋建投手(メッツ3A)が登場。アメリカでインタビューした内容をもとに前後編構成でお届けします。今回がその前編です。

◆石原氏が当ブログで過去に執筆した記事
 イスラエル野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
 メキシコ・ウインターリーグ紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
 ニカラグア野球紀行http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

      

★アメリカで高橋建投手本人に会う

  オハイオ州コロンバス。中西部にあるこの都市の名を知っている日本人は多くはないだろう。連日放送される大リーグ中継でも、この町の名を目にすることはない。
 しかし、州会議事堂の周囲に摩天楼の林立するこの町のダウンタウンのはずれにも小さいながらも美しいスタジアムがある。今年できた、いわゆるネオクラシックのレンガ造り概観をもつこの球場は、夏の間は野球ファンで埋め尽くされる。
 マイナーとはいえ、3Aのスタジアムともなると、韓国や台湾のプロのホームスタジアムと比べても遜色ない立派なものである。ベンチ裏のロッカールームはホテルのような設備で、泡のでるジェットバス付のトレーニング設備はもちろん、ゆったりとしたソファーにキッチン、選手が休憩するための卓球台までもが備え付けられている。
 試合後、そのソファーに座っていたのが高橋だった。

Takahashi_ken013Aのスタジアムを訪れた際の高橋は、予想以上にリラックスした状態で気さくに迎えてくれた

「どうぞ」

 入り口近くで顔見知りの選手と話していた私を見つけた彼は、奥に入るよう私を促した。食事中なので待つ旨を告げると、手にしていたサンドウィッチを口に押し込んでそれをコーラで流し込んだ。

「お待たせしました」

 私をソファーの奥の自分のロッカーの前に案内すると、その前の椅子に座らせ、自分はその前の丸椅子に腰掛けた。試合中、ベンチ横のカメラマン席から見た童顔の彼は、チームの若い選手たちに混じっても全く違和感ないほど若く見えたが、目の前にすると頭には白いものがちらほら混じっていた。 

 別にメジャーに特段の憧れをもっていたわけではなかった。
 しかし、彼がプロ入りし、キャリアを積んでいった90年代後半はMLBのグローバル戦略に日本が飲み込まれていった時代でもあった。次々と海を渡る戦友たちは高橋にとってメジャーリーグを近いものにしていった。
 それでも、日本でなかなか好成績を挙げられなかった高橋には、メジャーのマウンドに立つ自分を想像することはできなかった。ルーキーイヤーの夏場から1軍に定着し、左のリリーフとして来る日も来る日も投げまくっていた90年代後半を経て、彼が先発転向を果たしたのは入団7年目の2001年のことである。この年いきなり規定投球回数に到達して10勝(8敗)を挙げ、自身初の二桁勝利を達成したときは、すでに30歳を越えていた。
 そんな彼がメジャーリーグを意識するようになったのは、35歳を越えてFA権を得てからのことだった。

「35を超してからは、いつまでできるというのではなく、1年1年の積み重ねでしたね。その中で、(FA権を使って)メジャーへ行くのもありかなって」

 別にメジャーで活躍できるという自信があったわけではなかった。ただ、野球をしてきたものとして、一度はアメリカの、それも頂点のメジャーのベースボールを経験してみたいという競技者としての興味が湧いてきたのだ。

Takahashi_ken02メジャーについては若い頃から憧れていたワケではない。年齢を重ねていく中で湧いてきたものだった

 「ノマディック(遊牧民)・コスモポリタン」という言葉がある。競技力をもって国境を渡るトップアスリートを指す言葉なのだが、この言葉にはただ生活のために富を求めて競技を続けるプロ選手というイメージはない。既に成功を収め、十分な富を蓄えたトップアスリートが、半ば旅を楽しむかのように、競技もまた楽しみながら海を渡るという姿がそこにはある。
 高橋に聞いてみた。彼もまた、日本で十分な富を蓄えたから、現役の最後に近づいてなお、アメリカへ渡ろうという気が起こったのではないか。

「十分な金っていっても、金なんて贅沢すればいくらでもなくなっていくしね。今でも生活の不安はありまよ。でも、こっち来て、給料は落ちたけど…ほら、こっちはがんばればそれだけ上がりますからね」

 彼の背中を押したのは、後輩の黒田投手が2年越しの夢を叶えるためドジャースに入団したことだった。

「あれが一番大きかったですね。現役のうちにやりたいことやろうって、そう思いましたね」

 無謀とも言える彼の挑戦に家族も反対はしなかったという。
 しかし、実際メジャーでやれる自信はなかった。本人いわく「中学生以下」という英会話も不安要素だった。実際渡米してみると野球よりも生活習慣などで苦労した。
 日本でも一流だった黒田と自分をぴったり重ね合わせたわけではない。しかし、残り少ない現役生活で、経験できることはやってみようという思いが同僚の挑戦をみて、ふつふつと湧き出てきたのだった。

 広島を退団後の足跡は周知のとおりである。FA宣言はしてみたものの、なかなかこないメジャーからのオファー。それでもいまさら広島に戻るわけにはいかない。
 焦りの中決まったトロント入団、それもスプリングトレーニング中の解雇という結果に終わり、シーズン直前にメッツと契約――。半年にも満たない期間だが、これだけで高橋はアメリカ野球を十分体感したと言える。簡単にはいかないものの、チャンスはいくらでも転がっている野球がそこにあった。

         

(次週に続く)

      

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦している。今後は、年末にプエルトリコ、ドミニカへウィンターリーグを観に行く予定。11月10日発売『野球小僧』12月号では、日本の独立リーグに対する今後の方向性について、ハリケン氏の質問に石原氏が答える形式で提案する「世界の野球を見聞してきた研究者が語る日本野球 構造改革の提言 ~人、金、環境…できることはまだたくさんある!」や、「ワールドベースボールレポート」にてカナダ野球の執筆を担当。

2009-10-23

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 前田勝宏編・最終回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。多くの国を渡り歩いたあと日本に帰国。今季は関西独立リーグでプレーをしました。

 前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 少し間が空きましたが、前田編、いよいよ最終回です。

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

       

★本物のプロとのギャップ

 13年前、メジャーへの夢を口にした彼はその瞬間に異端児となってしまった。彼が今身を置いている独立リーグは、ある意味彼と同じ異端児の集まりと言ってよい。選手の多くは、恵まれた素質を持ちながら、中学硬式・軟式野球、甲子園、名門大学、社会人の強豪という野球エリートの進む階段から何らかの理由で転げ落ち、独立リーグという新天地から頂点のNPBを目指している。
 しかし、現在の自分の居場所、そしてそこに集う自分と同じ異端児たちに対する前田の目は厳しい。
 これまで、野球に専念できる環境になかったという事情は理解できるが、それはそこまでの実力がなかっただけの話である。本来なら、独立リーグという場を与えられて、野球に没頭しなければならないはずの彼らの大半は、それが出来ていない。毎日野球に専念できる環境、それも少ないながらもファンに囲まれてプレーできる場を得られたことで、かえって彼らは舞い上がってしまい、その時点で満足してしまっていると、前田の目には映っている。

 リーグは違うが、先日取材した、四国・九州アイランドリーグの試合中、こんなことがあった。ある選手が球場の通路に設置されていたコンセントを見つけ、携帯電話の充電を始めると、あっという間に通路中、ネット裏の記者席のコンセントがすべて充電器で埋まってしまった。いくら消化試合とはいえ、公式戦の試合中である。ひょっとすると試合中もケータイをいじっているのではないか? と疑いたくなるようなシーンだった。
 これは何も日本の独立リーグだけの話ではないのかも知れない。アメリカのマイナーも実は同じような状況で、ルーキーやAクラスという底辺のリーグの選手の多くが「プロ野球選手」という現状だけで満足してしまっているという者もいる。そこには底辺から這い上がろうとするハングリーなアメリカ野球…という姿はない。彼らよりAA、AAAといった上級クラスの選手のほうが実は野球に対してひたむきだといえる。
 結局、MLBやNPBといったところで、彼らにとって、それは夢にも近い遥かな目標であり、多くの者は手が届くかどうかわからに遠い先のことは考えず、毎日野球をやって給与をもらい生活をするという「プロ野球選手」になった自分に酔い、それに満足しきってしまっている。
 渡米するまではずっと野球のエリート街道を歩んできた前田には、トップ選手とそれからこぼれ落ちた選手の違いが手に取るようにわかる。かつて在籍していたクラブチームでさえ、プロ球団のない地方では、マスコミの取材の対象となり、ファンもつく。それはそれで悪いことではないのだが、真の「プロ」であるNPBに届かなかった者たちの多くはそこで「勘違い」をしてしまうのだ。そのことは今現在彼が身を置いている関西独立リーグでも同じだと、前田は感じている。

091023maeda01独立リーグでは中途半端な満足感を得ることによって、「ズレ」が生じる選手が出る。国内外でそういった選手を数多く見てきた前田(写真一番左)にとって、彼らを見る目は当然厳しくなる

「ファンサービスやゆうて、ブログかなんかやっとるけど、ちょっと違うなって。ファンサービスもこのリーグではやっていかなあかんのはわかるんやけど。ファンとの距離が近過ぎる子もおるんですわ。こんなとこでプロ選手や思って勘違いしてるんですわ」

 前田の目は手厳しい。そういう技術的にも精神的にも未熟な選手たちを見て彼はこうも言う。

「あいつら(NPBに)行けるとは思とらんですよ」

 夢を口にすることはたやすい。しかし、その夢の実現に向けて正しい方向性と強固な意志を持って切磋琢磨し続けることは誰にでもできることではない。ましてや真のトップアスリートの集うNPB、そしてMLBで成功を収めるには努力ではどうにもならない天性の素質という要素が大きく関わってくる。100マイルという、公式には未だ日本人が踏み込んだことのない「聖域」を知る前田にとって、類まれなる素質を持った自分でさえ成功を勝ち取れなかった世界と、独立リーグで「プロを目指す」と簡単に口にする選手たちの姿は、埋まることのない大きなギャップがあるのかもしれない。

     

★ディアスポラの性
 
 9月27日、大阪・万博球場での対紀州レンジャーズ戦に勝利した大阪ゴールドビリケーンズは前期に続き後期も優勝。2009年初年度の関西独立リーグは、シーズンのクライマックスであるチャンピオンシップを行わずに幕を閉じた。
 28日の明石レッソソルジャーズ対大阪の最終戦は、いわゆる消化試合である。明石は波乱に満ちたシーズンの鬱憤を晴らすかのように打ちまくり、8対1という大差でチャンピオンチームを破ったが、前田の出番はなかった。
 10月4日、本来ならプレーオフが行われるはずの万博球場。半年前と同じブルペンに前田は立っていた。前期後期とも大阪が制したために、行われることのなかったプレーオフの代わりに実施されたオールスター戦。1000人にも満たない観客しか集めることができなかったが、半年前の4月の試合に比べたら格段の大入りだった。

 ネット越しに、「吉田えり呼んできて!」という無邪気ながら無礼な野球少年たちの声に前田は笑いながら「もうじき来るから」と応じながら、ブルペン捕手の武田にフォークボールを投げ込む。初めて間近で見るプロのボールに、少年達はおおっと歓声を上げた。
 「いっぱいいっぱいでしたけどね」という今シーズン最後の登板は、規定の1イニングをきちんと抑えた。
 最後のバッターは三振。外角低めのフォークだった。その後、顔見せの「ナックル姫」の登板に、何かあった際の再登板の備えとして、「中学以来」というファーストの守備につき、前田の2009年のシーズンは終わった。

 この半年、前田と話して感じたのは、そのかたくなまでの頑固さである。
 海外での選手生活でも、あえて現地の習慣に溶け込むことはしなかったという。野球だけできればそれでいいのだと。
 素顔の彼は人間として非常に礼儀正しい好人物である。ファンに対しても、マスコミに対しても深々と頭を下げて挨拶するその姿からは、かつてメジャーを目指した頃に報道されていた悪童ぶりは想像できない。あの頃は日本球界を抜け出そうとする者は、その意思を持っただけで異端児とされてしまう、そういう時代だったのである。
 その日本球界に巣食う陋習は、連日テレビ画面を日本人メジャーリーガーが賑わすようになった現在となっても残っている…と、海を渡った経験を持つ選手の多くが口にする。
 思えば前田のプロ野球人としての人生は、ほんの少し先走ったために生じた自身への偏見との戦いだったのかもしれない。彼のかたくなさがそれを招いた面は確かにあるだろう。
 それでも今なお前田は投げ続ける。年齢から考えると、NPBやMLBへの上昇は不可能に近い。それでも彼は笑ってこう言う。

091023maeda02来年以降はどこのフィールドでプレーを続けるのか? 野球ができる限り、ベースボール・ディアスポラ・前田勝宏の歩みが止まることはないだろう

「嫁には怒られるかもしれんけど、また声がかかったらどっか(外国へ)いくかもわからんね」

 彼にとって、国やレベルはもはや関係ないのかもしれない。前田が投げ続ける理由はただひとつ、「そこにマウンドがあるから」。
 世界のどこかで野球場を見つけたら、覘いてほしい。そこのマウンドに大男が仁王立ちしていれば、その背中には「MAEDA」の文字があるかもしれない。
 そう、彼こそはボール片手に野球を求めて世界をさまよい歩く、ベースボール・ディアスポラなのだ。

<完>

      

※「ベースボールディアスポラは」今後も引き続き掲載の予定で準備中です。次はどの選手の物語となるのか? お楽しみに。 

           

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-10-01

緊急連載 長崎セインツを救え!(第1回)

▼前期優勝チーム・長崎セインツの実状を緊急ルポで紹介

 現在、四国・九州アイランドリーグでは、前期優勝の長崎セインツと後期優勝の高知ファイティングドッグスとの間で、今季の王者を争うリーグチャンピオンシップが行われている真っ最中です。しかし、その裏では、厳しい経営状況の中でチーム運営の維持に奔走するオーナーの姿があります。
 実際、資金繰りに苦しむ長崎セインツは、来季の球団運営の目処もいまだたっていない切迫した状況とのことで、樽募金を開始するなど、公式サイトでも広く寄付を求めています。
 こうした状況に対して、独立リーグ誕生当初からリーグの運営に着目する世界を放浪する野球観戦家・石原豊一氏が詳しい実状を取材、このたび緊急ルポとしてまとめました。以後数回にわたってあまり間をおかずに掲載していく予定です。
 また、文末に長崎セインツへの募金先についても案内しています。もし、このルポをご覧頂いた方で、寄付をお考えの方はそちらにお願いいたします。

 それでは、緊急ルポのスタートです。

       

がんばれ長崎セインツ
苦闘する独立リーグの現状と球界のドンキホーテ 地頭薗哲郎(セインツオーナー)

セインツの町・佐世保
 9月のシルバーウィークの九州は、あいにくの雨模様だった。
 JR佐世保駅の改札には、「がんばれ長崎セインツ」ののぼりが立ち、その横には募金用の樽が置いてある。「九州にも独立リーグを」の掛け声のもと、昨シーズンからアイランドリーグに参戦した長崎セインツだが、初年度から経営危機に陥り、それは前期優勝を果たした今シーズンも変わらない。資金集めに奔走するオーナー地頭薗哲郎(じとうぞう・てつろう)が、藁にもすがる思いで広島から拝借してきたのがこの樽である。カープ球団創設時の存亡の危機と新球場の資金集めの際、地元ファンから募金を集めた「伝説」を長崎でも再現しようというわけである。
 しかし、ここではこの樽に目をやる人はいても、手を伸ばすものは少ない。実際、募金活動が始まって以来、集まった金は数万円に過ぎないという。

 町を歩けば、確かにセインツのポスターやのぼりはところどころで目にする。しかし、これが目に入るのは、セインツを訪ねてこの町まで来た私だからであり、一般市民にインパクトを与えるほどのものではないという。

「野球が元々好きで、セインツができたのも知っていたけど、いつどこで試合があるのか最初はわからなかった」

 とは、去年の後期になって選手が街頭で行っていたビラ配りをきっかけに観戦し、今ではすっかりセインツにはまってボランティアスタッフになったファンの言葉である。スタンドのファンに尋ねてみても、その多くは観にいこうにも、試合のインフォメーションを手に入れることが難しいと口をそろえる。
 確かにホームページを見れば最新の試合情報など簡単にわかるし、佐世保駅から球場近くの大学駅までの路線を持つ地元ローカル線のプラットホームにも試合日程を載せたポスターが貼ってある。しかし、熱心なファンならともかく、日々の忙しい生活の中で、わざわざインターネットを開いたり、街頭のポスターを探すようなことをする人は多くはない。エンターテイメントの情報を得るために、大多数の人がテレビやラジオ、新聞を活用するのが一般的な中、それらに試合情報があまりないのが、ここだけでなく独立リーグ各チームが抱えている大きな悩みだと言える。

     

 駅についた頃、ぽつぽつと降り出した雨は、午後2時頃に宿についたときには、すっかり本降りになっていた。予報でも、この後天気が持ち直すことはないとのこと。
 中止かな? と思いながら球団オーナー兼社長の地頭薗に電話する。多忙なのか、電話は通じなかった。
 地元で外食やブティックなど手広く商売を行いながら球団経営をしていた彼は、2年目のシーズンを迎えるにあたり、オーナーに専念、Jリーグ入りを目指す長崎のサッカークラブの経営を軌道にのせた人物に球団の舵取りを任せた。
 しかし、夏以降、諸方面への支払いも滞る球団の惨状を目の前にし、この人物は9月に入って突如辞任、そのうえ、なぜかこの元社長がボランティアとして居残るという異常事態の中、地頭薗は再び社長を兼任することになった。かといって本業をおろそかにすることもできず、一方では球団存続に向けての金策に走るなど、体がいくつあっても足らないような生活を送っている。

        

 とりあえず町に出てみた。
 連休中とあって、屋根付きのアーケード街は地方都市のものとは思えないほどにぎわっていた。ご当地名物・佐世保バーガーの有名店に足を運ぶと長蛇の列。聞けば1時間待ちというので、あきらめた。
 店を出て今一度電話すると、地頭薗が出た。試合のことを聞くと、実施の方向だと言う。雨天中止再試合は経費がかさばるだけである。おまけに次週からのチャンピオンシップのことを考えても、これ以上の順延はできない。
 ただし、この日佐世保球場では高校野球が行われているので、午後5時にならないと選手は来ないらしい。「それでは伺います。よろしくお願いします」と挨拶して電話を切った。
 地頭薗の願いが通じたのか、電話を切ってまもなく雨はやんだ。

     

091001hirato長崎セインツのオーナ兼球団社長の地頭薗哲郎氏。苦しい経営難の中、資金繰りや球団運営に奔走する

 セインツの本拠地、佐世保球場までは、市街からローカル線のレールバスで20分ほどかかる。独立リーグの多くの球団にも言えることだが、スタジアムまでのアクセスの悪さは集客の足かせとなっている。NPBやJリーグの観戦チケットに、「球場周辺には駐車場はございません。バスか電車でご来場ください」とあり、実際、主な集客装置までは公共の交通機関が発達している日本にあって、マイカーでの集客を前提としたイベントの成功は難しい。
 ここの球場までは、最寄の駅から10分。但し、終電、終バスとも9時半前後というのは試合後のアクセスとしては心もとない。
 試合1時間前だが、駅から球場までの沿道にはそれらしい賑わいも雰囲気もなかった。唯一球場前のコンビニに立てられたのぼりが「セインツの町」を感じさせる。店内にはセインツグッズコーナーがあり、チームのロゴの入ったTシャツがセール売りされていた。独立リーグ球団には珍しく、選手カード入りのスナック菓子も売っていが、棚には置いていなかった。店員に欲しいというと、その店員は店長らしき人物の指示で姿を消し、しばらくして段ボール箱を担いできた。このスナックは地元食品会社のチーム支援の一環として、収益の一部がセインツに入ることになっている企画商品なのだが、売り上げははかばかしくないようだった。

       

 球場に着いた。スタンド前にはカレーや焼き鳥の屋台が並び、プロ野球が行われる雰囲気がかもし出されている。受付のテントに地頭薗を訪ねたが、スタンド内を駆け回っているという。焼き鳥屋とカレー屋は試合日に地元業者が来るのだが、スタンド内の売店は飲食業も営む地頭薗が直々に店を出している。その指示や準備に試合前彼は奔走するのだ。
 スタンド通路まで挨拶に出向いたが、初対面の彼の印象からは、ビジネスマンという言葉は似合わなかった。昔の田舎町の篤志家という表現がぴったりくる腰の低い篤実な人柄がにじみ出てくるようなその態度からは、彼がなぜこの町にプロ野球チームをつくるようなある意味酔狂な真似をしたのかが伝わってくるような気がした。

      

長崎セインツでは来季運営資金に対する募金を行っております

チーム存続のため、ひいては野球界の将来のためにも、みなさまの温かいご支援をお待ちしております。

■募金振込先
親和銀行 本店営業部 普通 2950254
株式会社県民球団長崎セインツ

●長崎セインツ公式サイト
http://www.dreamerproject.com/index.htm

       

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

<つづく>

※次回は準備が整い次第、近日中に公開いたします。

2009-09-25

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第12回

090925maeda02 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。多くの国を渡り歩いたあと日本に帰国。現在は関西独立リーグでプレーをしています。

 前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 実は前回「最終回」と予告したのですが、今回で終わりではありません。最終回は2部構成となりましたので、次回延長戦があります。

 まずは今回、最終回の前編をお楽しみ下さい。

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

   

★再び故郷へ

 2009年のシーズンを前田は、この年スタートした関西独立リーグ・明石レッドソルジャーズで迎えた。長崎でプレーし続ける選択肢もあったが、明石のオーナーが旧知の間柄であったこと、また、新参の九州勢を目の敵にするアイランドリーグの体質に嫌気がさしたのも事実であった。

 前田が事実上の兼任監督となり、チームが体勢をようやく整えた後期、首位香川相手に完封を続けるチームに突きつけられたのは、監督・コーチ兼任選手が全員フィールドに出て同時にプレーすることに対する禁止通達だった。
 指導者の誰かはベンチにい続けなければならないという指示は、日米でプロ経験のある前田と藤本博史(元オリックス・現明石)がバッテリーとして出場を事実上禁止することを意味した。
 監督代行の前田になされた試合中の暴力行為による退場宣告についても、本人は一切手を出していないと言う。彼はまた、自身の野球キャリアもまた、周囲から叩かれる原因になってのではないかと感じている。

「結局、日本出て、アメリカでやってたちゅうのが気に食わんのでしょう。日本で実績ないやつがなんやってね」

090925maeda01前田勝宏投手は外国のプロ野球を巡ったあと、昨年久々に日本に帰国。長崎セインツを経て、今年は明石でプレーする

 しかし、何よりも大きかったのは家族の存在である。再び故郷に戻ってきた前田は、神戸の自宅から球場に通っている。家族との「普通の暮らし」をようやく明石で手に入れることができたのだ。
 ただ、このチームでも前期シーズンはうまく機能しなかった。選手の力量の差があまりに大きかったからだ。KIL(関西独立リーグ)の審判のひとりも指摘していたが、独立リーグが増えていくに及んで選手層が薄くなってきている。プロとはいっても、個々に集うのはNPBにも実業団チームにも入れなかった者たちである。ましてや、既に2リーグもある中、発足した新興リーグが選手獲得に苦労したのは想像に難くない。

 前期シーズン、明石は毎週末の3連戦を前田、百合翔吾、福泉敬大によるローテーションで回し、先発しない者が、勝試合のリリーフに回るというスクランブル体勢で乗り切った。この起用法により、38歳になる前田の肉体はしばしば悲鳴を上げた。
 後期に入り、ようやく戦力が整った明石は現在優勝争いを演じた。前田は主にリリーフに回り、9月25日現在、通算で2勝4敗11セーブ、防御率1.61の成績を残している。

 シーズンも残り少なくなった9月初め、前田に今一度聞いてみた。これからどうするのか、と。
 「体は問題ない」と彼は言う。とかく存続の危機が取りざたされるKILだが、明石は来年のチーム継続を宣言している。
 とすれば、辞める理由はない。5カ国を渡り歩いた野球バカは体が動く限り、そしてプレーする場がある限り現役でいるつもりのようだ。

 しかし一方で、シーズンが終わったあとに控えるNPBのトライアウトは受けるつもりはないという。

「答え出てるからね。あそこで抑えても、受かるやつにはその前から声かかっとるし」

 一般社会同様、一度背を向けた人間に日本の球界は働き場所を与えることはなかなかないと彼は言う。思えば、前田の野球人生は、バッターボックスの相手打者や自らの技量や故障といった通常のアスリートが対峙する「敵」ではなく、日本社会の特有のしがらみや旧習との戦いに明け暮れていたような気がする。
 今や日本人選手がメジャーリーグに挑戦することは当たり前の時代となった。そして、それは賞賛されるべきこととなっている。
 この夏の甲子園を沸かした菊池雄星(花巻東)が、口にするメジャー志望を今、誰が責めることができるのか。
 改めて前田の台詞が思い出される。

「あのころはあかんことやったからね」

        

〈続きは次回。今度こそ本当に最終回です〉 ※更新は10月1~2週目の予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-09-08

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第11回

090908maeda01 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。多くの国を渡り歩いたあと、日本に帰国してのエピソードです。
 前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

   

★長崎セインツの厳しい船出

 2005年に暗中模索の中発足した日本の独立リーグも4年目を迎えた頃には、NPBへも多くの選手を送出し、その中から1軍でプレーする選手も出てくるなど、一定の評価を得るようになってきた。
 しかし、このこの年発足したばかりの四国・九州アイランドリーグの長崎セインツは、プロとは名ばかりの素人集団といっていいほどの戦力だった。同じ新規参入球団の福岡レッドワブラーズがエクスパンションドラフトで既存チームから選手を多く獲得したのに比べて、既にクラブチームとして活動をしていたこともあり、基本的には自前で選手を獲得、他チームからの補強はわずかにとどまった。
 関西独立リーグ・紀州レンジャーズ監督の藤田平氏は言う。

「レンジャーズの選手の中でも他の独立リーグを経験している選手とアマチュア経験しかない選手は大きく違う。その違いは技術的なものよりも体力的なものが大きい」

 1年間野球に没頭し、アマ時代には考えられなかった連戦をこなした独立リーガーは、やはりプロにふさわしい体力を身につけるのだ。アイランドリーグ1年目のセインツの選手にはこのプロとしての体力のないものが多くいた。

 この「アマチュア集団」にいきなり「プロとは何ぞや」を叩き込もうとした指導者にも問題があったと前田は回想する。

「あの子らにわからん世界のことをゆうてたからね」

090908maeda02外国のプロ野球をめぐり巡って、ようやく日本に戻ってきた前田勝宏投手(写真は明石レッドソルジャーズでプレーする今季の姿)

「プロ」になれなかった選手たちにNPBという一流の世界の技術論・精神論はすぐにはしみこんでいかなかった。彼らに必要だったのは、おそらくそれ以前の体力だったのだろう。それは独立リーグで1年間泥にまみれて初めて身につくものであり、その先にプロとしての技術・心構えがついてくるということを、このチームの指導者は理解していなかった。

 その上、選手起用にも大きな問題があったと前田は加える。

「ゴマするやつばっかり使こてましたからね」

 プロ入りまで、野球のエリート街道を歩んできた前田にとって、野球の実力以外のものでポジションを獲得しようとする選手や、その口車に乗せられて選手起用を見誤る指導者の存在は許しがたいというより、信じがたいものだった。

 確かに日本の野球のトップリーグであるNPBでも、監督の嫌悪によって選手の起用が左右されることは、しばしば報道されることではある。前田自身も日本球界に復帰したとき受けた「仕打ち」が、自身の力量に見合ったものではないことを感じている。
 しかし、組織として選手起用に情実が絡む土壌のあった球団は、常勝チーム足りえず、実力主義の徹底した球団は常に優勝争いを演じることを彼は感じた。

「だから、やっぱり西武は強かったんやなって、中日行って思いましたわ。試合に出れんは出れんで、それなりに納得はいきましたからね」

        

★セインツは09年前期優勝、その時前田は…

 セインツは開幕直後から連敗を重ね、8勝24敗という記録的な成績で前期を最下位で終えた。成績が悪ければチーム内、球団とスタッフの間に不協和音がでるのは常である。アイランドリーグ史上初めてシーズン途中に監督が解任、球団は地元出身の元日本ハムのリードオフマン・島田誠に次期監督を要請するが、他の仕事を優先したい島田との交渉はうまくいかず、結局島田を「総監督」として、経験豊富な前田を「代行」として指揮を執らせることにした。
 事実上の兼任監督を押し付けられても月25万円の給与が上がるわけでもなかったが、前田はこれを二つ返事で引き受けた。

 人心も一新され、選手たちにプロとして一番大事な体力のついた後期シーズン、長崎セインツは一時は5割を越える勝率を上げるなどその成長を見せた。結局は18勝21敗の5位に終わるものの、一時は3位にもつけた後期の躍進は、世界中のマイナーリーグを渡り歩いた前田の経験が長崎ナインに浸透した結果だと言ってよい。

 2009年7月、セインツは参入2年目にして前期優勝を飾った。しかし、その歓喜の輪の中には前田の姿はなかった。

      

 長崎球団が初優勝を飾ったその同じ日、彼の姿は閑古鳥の鳴く高砂球場のベンチにあった。

         

〈次回はいよいよ最終回です〉 ※作者取材のため、次回更新は9月4~5週目の予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-08-31

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第10回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。10回目の今回は、多くの国を渡り歩いたあと、ついに日本に帰国してからのエピソードです。
 前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090831_maeda外国のプロ野球をさまよい続け、ようやく日本に戻ってきた現在も明石レッドソルジャー・前田勝宏投手

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

   

★波乱の国内アマチュア復帰

 中国から帰国し、次のオファーを待ちながらトレーニングを続ける前田勝宏。しかし、…。

「中国でもう終わりやと思いました。もうないな、終わりやなと」

 彼の言う「一番レベルの低いプロ」でのシーズン後、前田は「現役引退」を意識した。
 ところが、そんな前田に舞い込んだのは社会人野球チームからの誘いだった。「アスピア学園」という専門学校が、野球チームを作るので指導者兼コーチとして入団しないかと誘ってきたのだ。地元で、アマチュアとはいえ、再びプレーできるとあってふたつ返事で前田は承諾した。おまけにコーチ兼任とあって、給与まで出る。野球で飯が食えるとあって、別居状態だった妻子と再び暮らし始めた。

「それまでは何の話もせずに、あっちこっち野球しにいってましたからね」

 このころになると、そろそろ幼稚園にあがる頃になった子供のことも気にかかって来るようになっていた。アスリートとして自身を極めようとする自分と、妻子を養わねばならない一家の長としての自分の狭間で揺れ動くようになった前田にとって、家族と故郷で野球にたずさわりながら暮らすことは、決して悪い話ではなかった。
 しかし、この「普通の暮らし」も長くは続かなかった。チームが、たった1年で解散に追い込まれてしまったのだ。
 その後は、町おこしのために立ち上げられた「岩手21赤べこ野球軍団」に加入、家族とは再び離れ、アアマチュアの頂点・都市対抗を目指すことになる。初年度の2006年は惜しくも夢の舞台の切符を逃してしまうが、秋のクラブ選手権へは全国大会へ駒を進めることができた。都市対抗へも翌年には岩手県勢20年ぶりの出場を決めた。
 選手としては順風満帆に見えたこのアマ復帰も、長くは続かなかった。「赤べこ」も資金難におちいり、都市対抗出場のオフには解散に追い込まれてしまう。

「スポンサーの社長が逃げてしもたんですわ」

 しかし、「この先」を模索しはじめていた前田に、それ程の時を経ずして朗報が舞い込んだ。リーグを拡張した独立リーグ・四国九州アイランドリーグの新球団・長崎セインツからオファーが舞い込んできたのだ。このオファーに前田は飛びついた。
 家族とは再び離ればなれになる単身赴任生活になったが、野球の魅力には結局勝つことはできなかった。

      

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-08-24

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第9回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。9回目を数える今回は、渡り鳥人生最高潮のイタリア、中国のエピソードです。
 前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090824maeda西武から始まった流浪の野球人生を経て、現在も明石レッドソルジャーで投げ続ける前田勝宏投手

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①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

   

★イタリア、そして中国へ

 台湾から帰り、鳥取のジムでトレーニングしていた彼にエージェントから再び仕事が舞い込んだ。セミプロリーグのあるイタリアのチーム、ボローニャからオファーがあったのだ。
 欧州のリーグは、基本的にはアマチュアリーグである。他に本業をもって参加している選手に金銭的な補助が出され、外国人選手はプロ待遇で給与が与えられるため、米国人の「助っ人」選手たちはこのリーグを「セミプロ」と呼んでいる。前田の待遇は月1800ドル。かつて有望株として大金を手にした選手にとっては、あまりに低い金額である。
 この月給なら野球に見切りをつけて、第二の人生を歩んだ方がましでもあり、当時32歳という年齢を考えても、多くの選手は自らの技量に見切りをつけるのだが、前田はこのオファーを受け入れた。
 台湾で復活した剛速球をあきらめてしまうにはあまりにもったいないと思ったのかもしれない。

「ずっとそんなんですよ。野球がしたいだけですよ」

 彼にとっては、野球さえ続けられれば、金銭はどうでもよかった。
 前田自身、

「もらえるんなら、そら、ようけもろた方がいいですけどね」

 と言うが、人よりいい暮らしがしたいからだとか、社会的な名誉が得ることができるからといった理由からプロ野球選手になったわけではない。ただ、アスリートとして頂点を極めたい。その選手としての本能とでもいうべき向上心が彼を動かしていた。

 この頃の彼は、家族とも離れていたという。

「今は仲良くやってますけどね」

前田は笑って話す。

「相談もなしにやってましたからね」

 幼子を抱えた妻は、「野球バカ」の夫とともに海を渡ることはしなかった。

 「思ったより高かった」というレベルのリーグでの彼の成績は6勝1敗。プロ契約の外国人選手の登板は、週末に行われる3連戦の金曜日だけという中で、大健闘と言ってよい成績を残した。だが、我慢していた腰痛が発覚すると、シーズン途中でたちまち解雇された。
 イタリアから帰国し、再びトレーニングに明け暮れる日々、野球を続けられるのかという不安は常に付きまとったが、それでも彼の自信は揺るがなかった。

「30(歳)くらいまでは、常に自分が一番やと思てました」

 だが、オファーのない日々はしばらく続いた。
 前田はワラをもつかむ思いで慣れないパソコンをひらき、インターネットで中国プロ野球のことを知る。幸いなことにこのリーグのマネージメントをしていたのは日本の会社だった。早速電話をかけ、自分を売り込んだ結果、創設3年目の中国リーグ入りが決まった。
 しかし、プロと名乗ってはいるものの、環境は驚くべきものだった。それまで野球不毛の地だった中国に、自国で開くことの決まった五輪対策のため突如生まれたリーグである。

「中国の時、僕16万ですよ。16万円、年俸。こづかいですよ。キャンプのときはもろてたかな? 覚えてない」

 これに、チーム全体が入る宿舎の中にあてがわれた部屋と、食事がついた。わずか3カ月ほどのミニリーグとはいえ、この報酬は外国人が収入を得るためにわざわざ海を渡るにはあまりに低いものである。
 その上、夜郎自大というべきか、海を渡ってやってきたかつてメジャーからも注目された外国人に対する中国人選手の態度は尊大なものだった。 

「こどもが教えてきよるんですよ、僕に。この子ら何を考えてるんかなっ、ちゅう感じでしたわ」

 このような環境の中、前田の気持ちはすっかりなえてしまった。成績は0勝5敗に終わった。

「実力ちゅうたら、実力なんやろうけど、アホくさくなっていましたから。キャンプ中、ピッチャーやってるやつが、シーズン始まって急にキャッチャーやってるんですもん。アホですわ。そのキャッチャーもポロポロしよるし」

 7月、中国での短いシーズンは終わった。
 帰国後、トレーニングは続けるが、自身「一番レベルの低いプロ」という中国で未勝利に終わったこともあり、前田はプロ野球選手として野球を続けていくことはもうないだろうと、内心思うようになっていた。

       

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-08-17

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第8回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今週で8回目を数え、いよいよ壮絶な渡り鳥人生に突入していきます。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090727maeda現在も明石レッドソルジャーで投げ続ける前田勝宏。2001年に中日を退団後、いよいよ流浪の野球人生が本格的に始まる

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①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

     

★台湾へ

 2001年に中日で日本復帰を果たしたものの、1年で退団――。徐々に流れが狂い始めていく中での心境たるや、いかなるものだったのか。

 前田に聞いてみた。

「こういう生活をしていて、不安はなかったですか?」
「そら、ありましたよ。この先野球できるかなって。僕なんかつぶすん簡単ですしね」

 流浪の野球人生の中、彼は不安を抱えながらそれでも野球を続けることを選んだ。
 しかし、その不安は生活できるかどうかではなく、野球を続けられるかどうかというものであった。この後、度重なるクビにあっても生活のことはほとんど気にかけることはなかった。日本でのプロ生活の初めに凡人には想像のつかないような契約金を手にしているから、生活のことは気にならなかったのかも知れないが、彼には元来野球をすること以外のものごとに対する関心が根本的に欠如しているようだった。

 中日をクビになったいわくつきの彼をとる球団は日本にはなかった。彼の魅力であった速球も、この頃は影を潜めていた。実際、渡米以来、彼のストレートは遅くなる一方だった。
 翌年以降、彼の活躍の舞台は海外に移される。
 エージェントが台湾プロ野球と話をつけてくれ、2002年シーズン前に興農ブルズに入団が決定。月給はよく覚えてはいないが日本円で50万から70万の間くらいだったという。日本では2軍選手の最低保障にも届かない薄給も、この国では最高ランクに入るものだった。
 日本では高校野球でも使わないようなみすぼらしい球場を転戦する環境はアメリカのマイナー以下だったが、前田にとって野球さえ続けられればそんなことはお構いなしだった。
 3月のシーズン開幕直後は、起用法も一定せず、そのためか思うような成績を残せなかった。しかし、中日退団後に出会ったトレーニングは確実に前田の肉体を変えていった。
 初動負荷トレーニング。
 今や有名アスリートから絶大な支持を得ているこのトレーニング法に出会った彼の体は、次第に「元に戻って」ゆき、6月にはストレートが150キロ代後半をマークするようになる。
 しかし、「ある日突然20キロも速よなった」(本人)ストレートに彼自身がとまどい、しばらくは感覚を取り戻すことに苦労する。シーズン当初の不振はチームの首脳陣の信用をすでに失わせており、そのことは彼の復活したストレートに対しても、剛球をコントロールできないノーコン投手という印象しか与えなかった。
 結局、台湾での前田の野球生活は、復活したストレートをもてあましたまま、シーズンの終了を待たずに終わることになる。
 帰国した前田は、自分の肉体を戻してくれた鳥取のジムに籠もり、次の流浪先を待つことになった。

      

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-08-10

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第7回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今回、7回目となりました。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090810現在、前田投手が所属する関西独立リーグ。球団経営等、揺れ動く中、選手達は必死にプレーを続ける

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①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

     

★日本復帰

 5年間マイナーに在籍したヤンキース。思えば入った球団が悪かった。もともと、この名門にあこがれて海を渡ったわけではない。

「ほんまはヤンキースには行きたくはなかったんです。そんなん、ヤンキースなんか強いからチャンスないですやん」

 彼の目標はメジャーのマウンドであり、そのためにはむしろ弱小チームの方が良かったくらいだった。
 しかし、金銭トレードという事情と、できるだけクライアントを高値で売りたいというエージェントの都合もあり、一番の好待遇を提示した資金力豊富な名門球団に入らざるを得なかったのだ。

「僕おった頃には、5年おって4回ワールドチャンピオンくらいでしたからね」

 実際、たしかに彼が在籍した5年間、名門ヤンキースは実に4度のワールドチャンピオンに輝いている。この間、彼がマイナーで共に過ごした選手には、アルフォンゾ・ソリアーノ、マイク・ローウェルなど、そうそうたるメンバーが名を連ねる。前田と同じく日本からアメリカへ渡ったソリアーノはピンストライプを身にまとうことができたが、ローウェルは黄金期を迎えた名門球団ではプレーの機会を得ることができず、他球団に活躍の場を与えられ、その才能を開花させた。ライバルチームにいたトリイ・ハンターは後に球団削減の対象球団になるツインズにいたため、階段を駆け上がるようにしてスターダムへと登っていった。

 2001年、前田は再び日本球界に復帰する。
 中日が提示した2400万円という報酬はマイナー時代の最高額を上回り、彼の保有権をヤンキースが売り渡すという形の金銭トレードは、彼の潜在能力への期待度がいまだ高かったことを示している。
 しかし、ここでも報酬は彼にとってはどうでもいいことだった。

「そら、ようけもらった方がええけど、ようけもらったから行ったわけではないですね」

 この時の前田の本心は、このまま日本球界に骨を埋めるというよりは、ただ層の厚い名門球団から離れたい一心だった。日本球界復帰はあくまでそのための手段でしかなく、すぐにでもアメリカに戻るつもりだった。

 再び踏んだ日本の土は彼にとって心地よいものではなかった。当時日本球界を「捨てて」渡米する者は「裏切り者」を意味し、思いのまま海を渡った彼は、旧来の秩序を重んじる指導者から受け入れられることはなかった。
 中日時代について彼は多くを語ろうとしない。「あまり思い出したくない」という暗黒の時代は、「1年間、投げずじまい」に終わった。彼自身、この時期の苦い経験は、自分の記憶の奥底に沈めようとしているようだった。

「コーチから無視されたからね。4月中は誰も話しかけてけえへんかった」

 この年、前田は開幕直後に2軍で2試合に投げた記憶はかろうじてあるものの、その後はなにも覚えていないという。
 自己の保身のため、いわくつきの彼に関わろうとしないコーチ陣を、「(自分の)やってることがむかついたんかもね」と言うももの、一方で、「でも、言えるのは、中途半端な力しかなかったということ」と自分のことも振り返る。
 「うっとしかった」中日での1年は、ほとんど野球をしないまま終わった。

 シーズン終了後、前田は自由契約となった。プロ生活始めての「クビ」だった。

       

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-08-03

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第6回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今回が6回目です。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090803maeda_2関西独立リーグで投げ続ける前田勝宏。13年前に渡米したときの体験を、今改めて振り返る

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★遠かったメジャーへの道のり

 1996年に憧れだったアメリカのマウンドに立った前田勝宏。だが、当時を振り返って前田は、「全然ダメだった」と言う。「ストレートだけなら」と前置きした上で、彼はマイナーリーグのバッターをこう語る。

「印象だけやったら、そら日本の1軍より上かなと思うくらいでした。こうも打たれるかな、いうくらい打たれましたわ」

 9試合で3勝2敗、防御率4.05という成績でAAでのルーキーシーズンを過ごした彼は、翌97年シーズンも2Aで送ることになる。25試合(先発は21試合)に登板して8勝10敗、防御率4.56と物足らない成績で2年目も終わった。そして、次の年にはローテンション投手の地位も剥奪されてしまう。

「このへんはもう終わってましたわ」

と言う98年のAAでの成績は1勝3敗、防御率7.71。若手の有望株が集うこのクラスで27歳という年齢を考えると解雇されてもおかしくない成績だったが、チームの首脳陣は彼がハワイ・ウインターリーグで出した100マイル(161キロ)の速球という素材をリリーフ投手という役割に見出そうとしていた。この年以降、彼はまっさらなマウンドに上がることはほとんどなくなった。
 AAで初セーブを挙げたこの年、前田はAAAに昇格した。しかし、結局メジャーまであと一歩の「2軍」であるこのクラスでは、この年の13試合とアメリカ最後のシーズンとなったその翌年の1試合しか投げることができず、1勝もすることはなかった。

「打たれようが、結果が悪かろうが、次また直したらええわ、と思うくらいで、自信をなくすことはなかったですわ。30歳くらいまでは常に自分が一番や思てました」

というアメリカ時代。その自信とは裏腹に自慢のストレートは遅くなる一方だった。
 それでも球団は「幻の剛速球」の復活を待った。その間、パッとしない成績だったにもかかわらず、年俸だけは入団当時の倍くらいまで上がってゆき、気がつくと5年の月日が経っていた。
 渡米4年目を終わった頃には結婚もした前田は、5年目のシーズンのほとんどをAAクラスで送り、2勝2敗で終えると、名門・ヤンキースを出ていく決意をした。

 彼のアメリカでの成績は、144試合に登板し、18勝21敗2セーブ、防御率4.69。
 メジャーはおろか、マイナー最高ランクのAAAでも1勝も挙げることはなかった。

       

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2009-07-27

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第5回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今回が第5回目です。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手のこれまでの野球人生の軌跡や、そのときの心理について石原さんが迫ります。
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090727maeda前田勝宏、海を渡ってアメリカへ。13年前、当時のいきさつを改めて振り返る

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②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

     

★1996年、アメリカへ

 1995年、野茂英雄のトルネード旋風を横目に、西武にいた前田勝宏は日本での最後のシーズンをおくる。頭の中は「どうやってアメリカでプレーできるか」でいっぱいになっていた。アメリカでプレーするという夢を目の前に、日本の球団との契約や習慣・しきたりなど、彼にはどうでもいいことになっていた。

 この年のオフ、前田は球団に渡米の意思を伝えた。日本に残る選択肢は、彼の中にはもうなかった。この「わがまま」な行動は、最終的には「チームの和を乱す選手は不要」という当時の堤オーナーの鶴のひと声で、翌96年のシーズン開始後、前田が半ば放出という形で名門ヤンキースに金銭トレードで移籍することで決着がついた。
 当時の世論は彼の行動に対して決して好意的な目を向けなかったが、彼はそういう自分の行動を「ただ自分がアメリカに行きたかった。それだけだった」と振り返る。当時の彼には、「他人の目」を気にするという、人間が年齢を重ねるにつれ知らず知らずのうちに身につけるある種の保身術を得ていなかったようだった。
 様々な紆余曲折を経て、前田が渡米できたのはシーズンの中盤にさしかかった7月のこと。自分なりにトレーニングは積んできたものの、この年春季キャンプにも参加しなかった彼にとって、この期間は大きなブランクになった。

 しかし、前田は日本での実績こそなかったものの、ハワイのウインターリーグで160キロを出したという事実がある。名門ヤンキーから「プロスペクト(有望株)」の評価を受けるにはそれで十分だった。チームの育成方針もあり、前田は2Aクラスからのスタートすることに決まったが、彼の年俸が西武時代を下回ることはなかった。日本円にして月10万円程度しか報酬を得られない選手が多く集うこのクラスにあって、彼の1000万円を超える年俸は破格のものだと言ってよかったが、そんなことはどうでもよかった。
 彼の目標はメジャーのマウンドに立つこと。たとえ報酬が下がったとしても、間違いなく海を渡っていた、と彼は言う。

 渡米後、まずはヤンキースのトレーニング施設のあるフロリダ州タンパで調整した前田は、その地に本拠地を置くルーキーリーグ、A級リーグで4度マウンドに立ち、予定通り2Aに昇格した。

           

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1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-07-20

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第4回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今回がその4回目です。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手の目に、今の関西独立リーグはどのように映っているのか? また、一人の現役選手としてどのような気持ちでマウンドに上がっているのか? その心理に石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

090720maeda姫路城をバックに投げる前田投手。彼のプロ入り当初からの投手人生を振り返る

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

         

★プロ入り前から抱いていたメジャーへの興味
 前田勝宏がプロ入りしたのは1993年、ドラフト2位だった。ちなみに、同じ年の1位は、のちに鹿取義隆、潮崎哲也とともに「サンフレッチェ」と呼ばれることになるリリーフエース、杉山賢人。3位は「サンフレッチェ」なきあと、ライオンズの守護神となる豊田清である。
 だが、そんな彼らの存在も、前田にとっては「ライバル」とは思わなかった。彼の中ではドラフト順位に関わらず常に「自分が一番」だったし、プロに入ることも「夢」などという非現実的な言葉で表すようなことではなく、至極当然のことであった。かといって、日本のプロで活躍することが、自分の終着点というわけでもなかった。その目線はすでに海の向こうのメジャーリーグに向いていたのである。

 メジャーへの興味は、すでに自分なりにプロへの手ごたえを感じはじめていた中学の頃からあったという。当時まだ「大リーグ」と呼ばれていた野球の最高峰は、日本人にとって、まだ距離の近い存在ではなかった。そんな時代に、プロ野球選手という目標と海を渡ってのプレーを重ね合わせることができたのは、船乗りだった父の影響かもしれない。自身はそのことを否定するが、七つの海を渡って時折家に帰ってくる父の存在が日本を出ることに抵抗感を感じなくしたことについては、前田も認めている。
 そんな大黒柱の留守がちな家庭にあって、2人の息子の進路に干渉することなく放任主義であった母親の存在も、その後の前田の人生に少なからぬ影響を与えていると思われる。2歳年上の兄は、彼いわく「売れない俳優」をしているらしいが、「自分の将来は自分で決める」ことが、彼の育った家の「躾」であったようだ。

 ただ、前田がプロの世界に入ったばかりの頃は、日米間にある「協約」のため、マッシー村上以来、数十年も日本人メジャーリーガーの出ていない時代である。だから、彼にとっては、メジャーリーグのマウンドで投げることが、具体的な目標というわけではなかった。
 年号が昭和から平成へ替わって間もないこの時代、アマチュア野球のトップ選手の想像の限界は日本のプロ野球までだった。しかし、グローバル化の波は次第にスポーツ界をも巻き込んでいく。

        

★移りゆく時代背景の中で
 MLBは80年代からドミニカに野球学校「アカデミー」を開設するなど、選手の育成と獲得の舞台を国外に求めるようになった。そして、その拡張のベクトルは、90年代になると大西洋から太平洋に移ることになる。
 94年にシーズンオフの若手育成リーグとして発足したハワイウィンターリーグには、MLB傘下のマイナーリーガーだけでなく、NPBや韓国プロ野球の若手選手も参加するようになった。ここに多数のMLB球団のスカウトが集るようになる。その事実は、MLBがすでにこの時点で選手獲得網をアジアに広げようとしていた証しでもあるが、日本では「ただ球が速いだけの投手」だったはず前田は、このリーグに参加することで、その網にかかることになった。
 そのことは彼にとって、「現実」として認識できなかったメジャーでのプレーの輪郭をおぼろげながら形にできた重要な経験であった。彼の力強いストレートは、スカウトの目を集めるのに十分だったのである。彼らの誘いは、アメリカという舞台をいっそう身近なものにしていった。
 最終的に、このリーグの参加によって前田の決心は固まった。ハワイから帰国する際、一緒にプレーした他国の同僚たちに「俺もすぐに戻るよ」と告げて飛行機に乗った。
 しかし、「社会人」をすでに経験している前田にとって、現実的には言葉通りすぐメジャーでプレーできるものではないこともわかっていた。

 世の中には「契約」というものが存在している――。

 そのことを知るには、すでに十分な年齢と経験をしていたのである。
 ハワイから帰ってきた前田にとって、現実的には日本でプレーする以外の選択肢は規則上存在しなかった。

 ところが、翌95年の契約をすませた彼に、いや日本球界をも揺るがす大きなニュースが飛び込んできた。当時日本球界ナンバーワン投手だった野茂英雄(近鉄)が、球団を「任意引退」し、ロサンゼルス・ドジャースと契約したのである。

         

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-07-14

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第3回

 『野球小僧』編集部ログでしか読むことの出来ない「流離いの海外野球放浪観戦者(?)」こと石原豊一さんによる海外野球紀行。これまで、「イスラエル野球紀行」、「メキシコ・ウインターリーグ紀行」、「ニカラグア野球紀行」と連載してきましたが、ついに第4弾の登場となりました。
 タイトルはズバリ! 「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、石原豊一さんが、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ”(野球離散民)に迫り、その声を聞くという構成です。

 記念すべき1人目は、日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドを経験し、いまだ現役で投げ続けている前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)。今回がその3回目です。
 野球のメッカであるアメリカから辺境の地である中国やイタリアなどを巡ってきた前田投手の目に、今の関西独立リーグはどのように映っているのか? また、一人の現役選手としてどのような気持ちでマウンドに上がっているのか? その心理に石原さんが迫ります。
 それでは、お楽しみ下さい。

▼石原豊一さんの過去の紀行文のリンクはコチラ
①イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
②メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html
③ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html

         

★前田勝浩は投げるのか?
 木戸銭無料となっていた7回から球場に入ったというのに、その時点ですでにリードしていた明石レッドソルジャースが追加点を挙げている。
 そんな中、ブルペンで若いキャッチャー相手にボールを投げ込む前田勝宏の姿を、金網越しに食い入るように小学校低学年くらいの2人の少年が見つめていた。この子供たちは目の前でピッチングをしているリリーフ投手の素性など知る由もない。
 いや、彼らだけではなく、この日のスタンドの観客のほとんどは、この場に元NPBどころか、3人目の「日本人メジャーリーガー」になったかもしれない人物が混じっているなど、考えもつかないだろう。むしろ、そう思う方が自然だった。

090714maeda海外で波瀾万丈の野球人生を送ってきた前田勝宏投手。帰国後プレーする独立リーグも四国・九州アイランドリーグに続いて2つ目となる

 全盛時には150キロを越えるストレートを誇った前田だが、38歳となった現在、彼が投げ込むボールには往年の勢いは感じられない。それもそのはず。38歳といえば、NPBの「プロ野球選手」でも現役でいる者は数えるほどだ。引退して第二の人生の設計図を実行に移していてもおかしくはない年齢である。
「スライダー!」
 右手をひねって、変化球を試す。投げ込むと同時に「ゴメン、ゴメン」と大きくそれた投球を捕手にわびる。ひと周り半は違うだろう若い捕手に対する気遣い方も、また年輪を感じさせる。なかなか変化球が決まらないのは、簡易な造りのブルペンのせいだろうか。肩を作っても出番があるかどうかわからない試合展開も影響しているかもしれない。既に大量点差のついたこの試合は、彼がその役を務める「クローザー」の登場する展開ではなかった。それを知ってか知らずか、コーチが歩み寄ってきて声をかけた。
 「こんな試合展開だから……」
 その後は聞こえなかった。

         

★最終回のマウンドには…
 明石レッドソルジャースのリードはさらに広がっていた。
 そんな中、負け試合にも関わらず、球場中に響く大声を張り上げる選手がいる。
 大阪の遊撃手・長谷川勇太。飛んできたゴロを大きくはじいた直後のことだった。
 この手の選手は、アマチュア野球やプロの2軍にはよくいる。とにかく元気さが目立つ選手…。だが、ひとつ間違えば、相手チームから何かと「狙われる」対象になる。
「こっちは達者やねんけどね」
 前田は彼のエラーを見ながら、右手を口に寄せて、傍らにいたコーチに声をかけた。その目は笑っている。その姿からは、「さてあの大口たたきの元気なやつはこれからどう大きくなるのかな」といった発展途上の若い選手を見守る余裕すら感じられた。

(この試合展開で彼は投げるのだろうか?)
 そんな私の疑問をよそに、前田はブルペンで一球一球丁寧にストレート、変化球を投げ込む。その様子を見て、私は不思議なことに、(前田は登板する)と確信していた。
 ひと汗かいたところで、投球練習を終えた前田がベンチへ戻る。その背中に対し、彼が何者かを知っている年配のファンから声が飛んだ。
「前田さん、今日はこんな試合やから投げんやろ?」
「いや、最終回いきますよ」
 本人の口から、確信したとおりの言葉がスタンドに返ってきた。

 9回表。明石と大阪のスコアは11対2となっていた。
 明石の長い攻撃の後、前田の名前がアナウンスされる。この「大物」の登場にも閑散としたスタンドの反応はほほとんどなかった。
 だが、前田は何事もなかったようにマウンドに上がり、格の違いというべきか、ワンサイドゲームの最後を無難に締めた。
 ふと、手にある関西独立リーグの選手名鑑に目を落とす。そこに記されている彼の目標は、「NPBへの復帰」。多くの人が、これを本気とはとらえないかもしれない。だが、この砂の舞う荒れたグランドで、ふた周り近く年の違う若い選手相手に渾身のストレートを投げ込む彼の先には大きな夢が確かにあった。

 次回以降、そんな前田自身の野球人生について綴っていくことにしよう。

         

★関西独立リーグの存続条件
 蛇足ながら、最後に関西独立リーグについての見解を述べておきたい。
 試合後、芝生席で2人の若者がこの日の試合について話し合っていたのだが、「せっかく来てはみたものの、そのレベルに満足いかなかった」という1人に対して、もう1人は、「これはこれでよかった」という。その会話こそが、現在のリーグの立ち位置を象徴しているように思えた。
 日曜日のデーゲームだったこの日。万博記念公園野球場に集まった観客は約500人。これを千人規模に増やしてゆくには、「独立リーグ」のブランドと、「タイガースの試合に行くような期待をしてはいけないが、いわゆる『プロ野球』とも、高校野球とも違う別の野球を見に行くつもりならばけっこう楽しめる――」そんな商品価値をいかにファンに訴えかけてゆくかがカギとなるだろう。

           

〈次回につづく〉 ※更新は原則毎週月~火曜日頃に行う予定です

        

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-07-06

「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第2回

これまで当ブログにて「イスラエル野球紀行」「メキシコ・ウインターリーグ紀行」「ニカラグア野球紀行」という3本の海外野球紀行を連載されていた石原豊一さん。(イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
(メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html)(ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
 その第4弾がこの「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏が、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ(野球離散民)”に迫り、その声を聞くというコーナーになっています。
 記念すべき1人目のディアスポラは日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドで戦い続けてきた前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)です。
 前回の関西独立リーグから、ついに今回から前田投手の登場です。

Banpaku閑散としたスタンド。多くの若者がこの場所から華やかなNPBへの挑戦を夢見ている

★観客500人のプロリーグ
 低いスタンドの切れ目からバックスクリーンをのぞくと試合は既に7回に入っていた。
  球場正面入り口にはテントがしつらえてあって、入場券やグッズが売られていたが、すでに試合が終盤に入った今となっては、1000円也の木戸銭を払ってこの得体の知れない「プロ野球」を見る者はいない。リーグとしてはとにかく自分たちの「商品」を見てもらわないと次へつながらない。テントからは「どうぞ見ていってください。今なら無料ですよ!」の声が響き、入場口には「7回以降入場無料」の札がかかっていた。

 スタンド、といっても、ここ万博球場のそれは内野にいたるまで360度芝生席だ。球場発表の500数十人の観客は内野を中心に思い思いの場所に陣取っている。試合はすでにビジターチームの明石レッドソルジャースの一方的な展開になっていた。ホームチーム・大阪のベンチである一塁側には数名の応援団が陣取って声を張り上げている。その声を掻き消すほどの大きな掛け声がフィールドから響いてきた。一目見ると高校野球の地方予選のような風景だった。

★誰よりも世界を知る男・前田勝宏
 私は、三塁側ベース後方のスタンドに向かった。目の前はブルペンになっており、ひとりの投手が出番に備えて投球練習を行っていた。
 前田勝宏、38歳。NPB入りを目指す若手選手の集うこのリーグにあって彼の姿は異彩を放っている。今年プロ生活20年目を迎えた、といっても彼は一般に言われる「プロ野球」、つまりNPBには数年しか在籍していなかった。「メジャーリーガーになる」。そう言って、髪を金色に染め、「管理野球」の総本山・西武ライオンズでは異端児の扱いを受け、半ば放り出されるように海を渡ったという。メジャーリーグが「ノモ・フィーバー」に沸いた14年前の1995年のオフだった。非公式ながら日本人で最初に160キロをマークした彼のその右腕はアメリカでは陽の目を見ることなかったが、彼の後、海を渡ったサムライたちはその多くが夢をかなえ、日本の野球界はグローバル化の波にのまれていった。

 私が彼を最初に見たのは2002年、台湾でのことだった。照明の暗さだけが印象に残る高雄市立徳野球場。
 内野スタンドから声をかけた私にスタンド前のブルペンの長いすに腰掛けていた彼は気軽に返事を返してくれた。その彼の印象は世間で語られていたものとは全く違っていた。
 とにかく礼儀正しい。スタンドから突然声をかけた一介の旅人の私の質問に、彼は実に丁寧に答えてくれた。選手と観客の距離の近い台湾の雰囲気もそれを助けたのだろうが、大して年の違わない私に彼は常に敬語で受け答えしてくれたのだ。
 アメリカのマイナー・リーグよりも設備、待遇などあらゆる面で劣っているという台湾で、それでも彼はそれを苦にするでもなく、野球を続けられることにより喜びを感じながらプレーしているようだった。
 彼のチームでの起用法は、一定せず先発かと思えば、リリーフに回ったりと、調整のしにくいのがやや不満そうだった。それでもブルペンのベンチで、ドミニカ人のエースピッチャー、オズバルド・マルチネスと気軽にスペイン語と英語のチャンポン語で会話している姿は、彼の国際経験の豊富さを感じさせ、この国での成功を予感させた。
 その予感どおり彼は、この新天地で150キロを超える剛速球を見せつけ、その活躍は海を渡って母国・日本でも報じられるところとなったが、夏を過ぎたころ、彼に待ち構えていた運命はチーム編成のやり直しによる解雇という運命だった。結局彼はシーズン終了を待つことなく台湾を去ることになった。

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

2009-06-02

石原豊一の「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」 第1回

 これまで当ブログにて「イスラエル野球紀行」「メキシコ・ウインターリーグ紀行」「ニカラグア野球紀行」という3本の海外野球紀行を連載されていた石原豊一さん。(イスラエル野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat2140867/index.html
(メキシコ・ウインターリーグ紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat82358/index.html)(ニカラグア野球紀行→http://kozo.weblogs.jp/kozo/cat4323204/index.html
 今日からその第4弾にあたる「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)を訪ねて」がスタートします。
 これまでの海外野球紀行シリーズとは異なり、野球を求めて世界を巡る“放浪野球観戦”の第一人者・石原豊一氏が、野球を求めて世界を巡る“ディアスポラ(野球離散民)”に迫り、その声を聞くというコーナーになっています。
 記念すべき1人目のディアスポラは日本、アメリカ、イタリア、中国、台湾と世界のマウンドで戦い続けてきた前田勝宏投手(明石レッドソルジャーズ)です。
 今回はまず、前田投手の所属する関西独立リーグについて紹介します。

★第3の独立リーグ“関西独立リーグ”
 WBCの熱狂に象徴されるように野球のグローバル化は近年、加速度的に進んでいる。MLBを核とするこの野球の世界的拡大の中、プロ野球もその裾野を広げ、2000年以降、中南米のパナマ、ニカラグア、コロンビアにとどまらず、「野球不毛の地」だった中国、イスラエルにまでプロリーグが設立された(パナマ、イスラエルは休止)。
 またこれまでファーム組織をそなえたプロ野球の存在していた北米、日本には「独立リーグ」なる新たな形のプロ野球が誕生し、その底辺を拡大しつつある。この流れの中、選手にとってはプロ野球選手への夢は大きく広がった。実際これら裾野から頂点のMLB、NPBの晴れ舞台に上がった選手もいる。
 しかし、圧倒的多数の選手たちは過酷なプレー環境、低い待遇の中、泥にまみれてプレーするも、大きな夢は夢のまま、「マイナーリーグ」を夢の墓場にしてグランドを去っていく。私は彼らを「ベースボール・ディアスポラ(野球離散民)」と名づけ、主に今年発足した関西独立リーグの選手を追うことで、彼らの生き様を紹介していきたい。

  2009年4月19日、大阪郊外の万博球場。外野からスタンドを望むと芝生席の低い内野スタンドのはるか向こうに、1970年に行われた大阪万博のシンボル、太陽の塔が望める。野球場の周囲にはサッカーや、草野球の練習グラウンド、球技場があり、老若男女が日曜の午後を楽しんでいる。サッカー・Jリーグのガンバ大阪のホームスタジアムはここからは高速道路をはさんだ反対側にあり、「見るスポーツ」を楽しむのが向こう側なら、こちらは「するスポーツ」の場である。
 駐車場から入ると一番の盛り上がりをみせていたのは球技場の大学アメリカンフットボールの試合で、その奥の野球場に向かうにつれ、人通りは少なくなり静けさが漂っていた。この小さな野球場が盛り上がりを見せるのは初夏に行われる高校野球の予選くらいなものだ。
  ここを通った人々はまさかこの球場で「プロ野球」が行われているとは思わないだろう。出店が出ているわけではなく、歓声が聞こえてくるわけでもない。ときたま聞こえてくる打球音に、道行く人は、リトルリーグの練習でもあるのかなと思うくらいののどかな空気が漂っていた。

 関西独立リーグ(KIL)は、今年(2009年)に発足した新興の独立リーグだ。既存の四国・九州アイランドリーグ、BCリーグに続き、日本プロ野球組織(NPB)とは別の組織として発足した第3の独立リーグである。先行のリーグがアメリカのそれをならい「メジャー」リーグとそのファームチームのフランチャイズと競合しない「プロ野球不毛の地」に拠点を置く「ニッチ(隙間)産業」であったのに対し、人口の少ない地方よりむしろ潜在的に野球ファンの多い関西地区にビジネスを展開すべしとKILは兵庫、大阪、和歌山にフランチャイズを置いた。独立リーグの本場、北米でもメジャーリーグ球団とフランチャイズを同じくした球団が苦戦する中、あえてこの関西地区に進出したKILには、企業チームの休止の相次ぐ中での日本の野球組織のピラミッド再編という点で注目せずにはおれない。
 休日のデーゲームにも関わらず、静まりかえった球場周辺の空気はこのリーグの認知度をそのまま反映している。NPBの2チームが居を構える上、そのうちの1つが日本一どころか世界でも有数の人気チームである阪神タイガースを擁する阪神地区にあって、新たなスポーツビジネスの展開には厳しい状況が待っていることは誰の目にも明らかである。歴史を紐解けば、同じNPBですら、既に3球団(松竹、南海、近鉄)が経営から撤退している。(続く)

■石原豊一(いしはら・とよかず)
1970年生まれ、大阪府出身。圧倒的な行動力で、これまでアジア、アメリカ、中南米、ヨーロッパなどを渡り歩く「流浪の野球好き」。すでに世界各国200を超える球場で野球を観戦してきた。昨冬は南米・コロンビアに飛び、現地の野球を体感してきた。

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