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『野球小僧』編集部アンケート

2010年3月

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過去のアンケート内容とその結果

  • 001 今年最も興味があるチームは?

2010-01-11

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第8回

ひとりぼっちのレフトスタンドDome01_2

 その日、僕はたった一人で西武ドームのレフトスタンドにいました。
 敷き詰められた人工芝と緩やかな傾斜を足の裏に感じながら、両手に携えたトランペットをグラウンドへと掲げ、そっとマウスピースに唇を当てる。
 ――さあ、行くぞ。
 肺いっぱいに息を吸い込むと、すかさずその空気を押し出すように腹筋を震動させる。二酸化炭素のパーセンテージが少し上がったその気体は僕の口からマウスピースを通って管を駆け巡り、高く突き抜けた音となって、ドーム内に轟きました。

パラパ~  パーパパパパ~ラパパ  パラパ~

 必殺仕事人のテーマ。
 かつてはヤクルト・若松勉選手が打席に入った際のファンファーレとして使われた曲としても知られています。
 最後の音を出し切ると、ドームの白い天井あたりから「ほわ~ん」というかすかな反響が聞こえました。僕は今まで辞書に書いてある以上のことを知らなかった「余韻」という言葉のリアルな意味を、この反響とともに体の細胞一つ一つに浴びせることができたような気がしました。
 そしてグラウンドでは、攻撃側も守備側もプレーヤーたちが全員レフトスタンドを向いて、僕に向かって高らかに手を打ち鳴らしてくれているのでした。

 ここまで書いたことはすべて僕の妄想…などではもちろんなく、あくまでもノンフィクションです。
 なぜ西武ドーム? なぜ一人? なぜトランペット? なぜ拍手?
 …といった数々の疑問点があると思いますので、一からお話しさせてください。
 まず事の起こりは、さかのぼること数週間前。高校・大学を通じて同級生だった男からの突然の電話でした。
 その男は僕に向かって開口一番、

「西武ドームで野球しないか?」

 と言いました。

「ほわっつ?」

 と僕が返すと、男は子細を説明し始めました。
 その男の大学時代の友人が、今度結婚することになった。そこで記念に何かしたいということになり、西武ドームでの野球の試合が企画された、…と。
 つまり、僕を助っ人として呼びたいのかな? と思いきや、少し事情が違うようでした。男は言いました。

「うん、一応試合には出てもらおうと思ってるんだけど、その前にトランペットを吹いてくれないかなと思って」

 この「トランペット」については、少し長い説明をしなければなりません。
 実は、僕は小学校4年生からの3年間、ブラスバンドに所属して、トランペットを吹いていたことがあるのです。
 ほとんど女の子目当てでブラスバンドに入った僕は、音楽的才能を著しく欠いていたためトランペットの腕などまったく上達せず。半ば自暴自棄になって、好きなプロ野球の応援歌ばかり吹いていました。
 原辰徳(巨人)、清原和博(西武)、秋山幸二(西武)、立浪和義(中日)、篠塚利夫(巨人)、モスビー(巨人)、江藤智(広島)、池山隆寛(ヤクルト)、広沢克己(ヤクルト)、和田豊(阪神)、福王昭仁(巨人)…。レパートリーは多岐に渡りました。すると不思議なもので、応援歌をたくさん練習していくうちに、トランペットの腕がみるみる上達していったのです。「好きこそものの上手なれ」ということを初めて実感できたのがトランペットでした。
 それから約8年後、僕は大学生になっていました。そのとき、大学で年に2回「球技大会」があり、僕が所属していた落語研究会もソフトボール部門に出場するのが恒例でした。
 落語研究会とは、「何とかして目立って笑いを取りたい」という、生臭いまでの野望の塊ですから、毎回ありとあらゆる仮装をしたりして出場していたのですが、その中で僕が持ち味を発揮できたのが「トランペット」でした。
 当然、選手が打席に入れば、小学生の頃に必死に練習した応援歌を奏でます。それだけでなく、僕が出塁しようものならタイムがかかり、ベンチからトランペットを持った後輩が僕に渡しに来ます。トランペットを受け取った僕は、今度は塁上で応援歌を吹き鳴らす。その後、長駆ホームインしたとなれば、全員でホーム付近に集合してビニール傘を開き、『東京音頭』を大合唱するのですが、当然僕は息が切れています。まともにトランペットなど吹けるはずもなく、弱々しくイントロを吹いた後、「吹けるか!」と帽子を叩きつける(©上島竜兵氏)と、グラウンド周辺は大爆笑に包まれる…、というのが鉄板パターンになっていました。
 当然、そんなチームは他にいませんから目立ちます。卒業アルバム用の写真撮影のために手配された大学のカメラマンは、いつも僕たちの試合を追いかけていたほどです。
 そんな僕のトランペット姿を見ていたのが、西武ドームの野球企画の発端となった、結婚する当人。ありがたいことに、「あのトランペットが聴きたい」というリクエストをしてくれたということなのです。

「絶対行く! 試合に出なくてもいいから行く!」

 僕は「西武ドームで野球をする」という貴重な機会を棒に振ってまで、トランペットを吹きたいと切望しました。西武ドームのあまり長くはない歴史の中で、野球をやったことのある人は数え切れないほどいるでしょうが、たった一人で外野スタンドでトランペットを吹いた人など、ほとんどいないと思ったからです。

 そして、試合当日。先頭打者が打席に入った刹那、僕は冒頭の『必殺仕事人のテーマ』を吹いたのでした。
 試合開始直前にバックスクリーン付近のトイレの個室に籠もって練習した、完全に付け焼き刃の演奏。それでも思ったよりもうまく吹けたので驚きました。
 グラウンドからは盛大な拍手が聞こえて、「つかみは成功だ」とほくそ笑んだのもつかの間。それからは想像もしなかった苦難が待ち受けていました。

Dome02_2応援風景はもちろんセルフタイマーで撮影も、痛恨のピンボケ

 いざ試合が始まると、こちらがいくら応援歌を鳴らしても、誰も反応してくれません。「そりゃ、そうだろ!」と言われそうですが、これが結構しんどいのです。
 大勢で一体感を持って応援するプロ野球の応援団と違って、こちらはたった一人。太鼓もなければ、メガホンもなく、声援を送る人員すらいない。そもそもグラウンド、ベンチにいる30人ほどの中で、知っている人なんて3人しかいません。ただでさえ心細い上、グラウンドからの反応がなければ「自分は何のためにここにいるんだろう?」という問い掛けが、ぐるぐるぐるぐる、頭の中でとぐろを巻いてくるのです。
 途中から僕は、極力「ボケ」に走るようにしました。
 たとえば、ついさっきまで応援していた選手が凡打をした瞬間に、「凡退のテーマ」(アウトになった瞬間に守備側の応援団が吹くようなやつ)を吹いてみる。それから得点が入った時に、西武ドーム前の売店で買ったビニール傘を広げて『東京音頭』を吹いてみる。しかし、それらに対してグラウンドからのレスポンスは、やはりまったくと言っていいほど感じられないのです。
 ならば…、と今度は、結婚する人が打席に入ったときに、リズム的に応援歌には全くそぐわない『CAN YOU CELEBRATE?』を吹いてみる。もしくは人工芝に寝っ転がって『崖の上のポニョ』を吹いてみる。そこまでしているのに、グラウンドのみんなは、丸い玉を長い棒で当てっこする玉遊びに夢中です。それは、西武ドームを舞台にした、僕に対する「壮大な無視」のように思えました。
 しかし、悪夢はこれで終わりませんでした。この世で最も恐ろしい「ギャングたち」がやって来たのです。

「あれ~? なんでラッパ吹いてるのぉ~?」

 声を掛けられて振り向くと、そこには小学校に入ったばかりとおぼしき少年が2人立っていました。
 僕はグラウンドを見下ろしながら、少年たちに答えました。

「お兄ちゃんはね、あのチームの応援をしているのだよ」

 しかし、少年たちに僕の言語は通じませんでした。少年たちは恐らく初めて見たであろう金管楽器を前に狂喜乱舞。僕からトランペットをひったくり、マウスピースを拭いもせずにカポッと口に含むと、「ふー、ふー…」と音を鳴らそうと試み始めてしまいました。

Dome03 はしゃぎ回るギャングたち

 さらに小学校3、4年生くらいの少年、少女が3人ぞろぞろやって来て、僕を取り囲みました。

「ボクもトロンボーンやったことあるよ!」
「私はね、ピアノやってるんだ~」

 矢継ぎ早に話し掛けてくる少年、少女たち。そして、略奪されたトランペットは、もはや小さいギャングたちによってオモチャと化していました。「蒙古襲来」というより、「蒙古斑襲来」ともいうべき目まぐるしい事態に、僕はすっかり翻弄されていました。
 その少年、少女は、次の時間帯に西武ドームで野球をする選手たちの子どもでした。次第に子どもたちと打ち解けていった僕は、彼らに一つの提案をしました。それは一緒に『東京音頭』をやる、ということでした。
 グラウンドで最後のアウトが告げられた瞬間、僕はビニール傘を少女に持たせ、高らかに東京音頭を吹き鳴らしました。そして、曲を終えると6人揃って万歳三唱。もうその頃にはグラウンドの方向をうかがう勇気はなかったのですが、子どもたちみんなが楽しそうだったので、それでいいと思いました。

 試合終了後、バックネットからスタンドをグルッと回って引き上げて来る選手、関係者たち。僕はもう「完全にスベッた」と思っていたので、正直いたたまれずにいたのですが、知っている人も初めて会った人もここで意外な反応を見せたのです。

「いやぁ、サイコーだったよ!」
「途中で寝っ転がってたでしょ?」
「ベンチ全員で突っ込んでたんだよ」
「どの曲吹こうか楽譜選んでたでしょ?」
「座っている時より立っている時のほうが高い音が出るんだね」
「子どもたちに襲撃されてた時は笑ったよ!」
「最後の東京音頭は良かったね!」

 などなど。最初は社交辞令で言っているのかと思いきや、結構みんな本気で喜んでくれていたようで、心の底からホッとしました。
 でも僕が「完全に無視されてる」と思っていたのとは裏腹に、ベンチやグラウンドからでも遠く離れたスタンドがよく見えていた、ということは新鮮な驚きでした。
 自分の思いが伝わっているんだか、伝わってないんだかわからないトランペットを吹き続ける行為は、返信のないメールを打ち続けているようなものです。うるさい、打球音が聞こえない、ただのストレス発散だ、などなど、何かと野球通から批判を浴びることの多い外野スタンドの応援。でも、チームの勝利を真剣に願って応援している人にとっては、実はものすごく不安にまとわりつかれる行為なのではないでしょうか?
 応援団の皆さん、外野スタンドとグラウンド、どんなに離れていても、プロ野球選手はベンチからみなさんのことがよく見えますし、応援だってしっかり届いていると思いますよ。だから心が折れそうになっても頑張ってください!

(おわり)

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ69キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-12-24

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第7回

富田塾からのクリスマスプレゼント

 ある日の午後、いつも通りのんびり社長出勤すると、散らかした机の上に平べったい小包が置いてありました。
 なんだろうと思って封を開けると、中から出てきたのは2枚の色紙。いずれも、僕に向けての寄せ書きのようです。
 え、なんで? 僕に?
 あまりに驚きすぎて、しばし言葉を忘れた僕は、とりあえず1枚目の中央に一際大きく書かれた文字を読んでみました。

Yosegaki富田塾
塾長 富田等
菊地さん江
鍛錬千日
勝負一瞬
塾長 富田等

 なぜ「塾長 富田等」が2カ所も? という、どうでもいい疑問は置いておくとして、その「屈強」とでも表現したい筆跡を見た瞬間、僕の背すじは極限まで張り詰め、顔からはみるみる血の気が引いていき、逆に内臓からは猛烈な吐き気がゴゴゴゴ…と活火山の溶岩のように押し寄せてきた。…というのはさすがに嘘ですが、それくらいの身体的異常をきたしてもおかしくない「思い出」が脳裏に蘇ってきました。
 「富田塾」とは、『中学野球小僧』1月号で僕が1日体験入部させてもらった、群馬の野球塾です。野球部を引退した中学3年生が集まり、高校野球に向けてのトレーニングをする野球塾。その存在自体は珍しくはありませんが、この富田塾は群馬県内で「泣く子も黙る」どころか、「泣く子も笑う」野球塾として知られています。あまりの厳しさに頭のネジが2、3本吹っ飛んで、少しおかしくなってしまうのです。1日体験入部では、体力的に極限状態になった時こそ「バカになれ~! バカになれ~!」という熱い檄がグラウンドでこだましていました。
 その富田塾の塾長こそが、富田等さん。生命力みなぎる文字そのままのパワフルさと、普段は銀行マンとして働いているためか、とてもふんわりと柔らかい物腰をも持ち合わせた、野球にとことん真摯に向き合う方でした。
 同封された手紙によると、富田塾の忘年会で色紙2枚にも及ぶ僕に向けてのメッセージを富田さんと中学球児の皆さんがつづってくださったということです。
 こんな贈り物をいただいたのはもちろん初めて。本当にありがたいなぁと思いながら、1日限りのチームメイトたちのメッセージを読んでいきました。

Player_kikuchi ・一緒に野球ができて楽しかったです
・すげぇ~楽しかったです!!!
・良かったらまた練習に来てください。
・継続は力なり
・対決待ってま~す
・体壊さないように気をつけて下さい
・菊地さん最強!!
・次の日、大変でしたか?
・全力プレーありがとうございます
・甲子園で会いましょう
・菊地さんもう少し体力つけましょう
・めちゃくちゃ楽しかったです。これが富田塾だ。頑張って下さい

 …などなど、温かい言葉がズラリ。
 そして2枚目の色紙の左上には、またもや富田塾長の「お言葉」が。

山歩けば花を見て、
球追えば死ぬ気で…!!

 第三者からしてみれば「物騒」とも思える言葉ですが、確かにあの日、僕の中には「生」と「死」が、シーソーのようにギッコンバッタン、上ったり下りたりしていました。あんな体験はお金で買えるわけもなく(かといって買おうとする人もあまりいないと思いますが)、本当に貴重なことだったんだなぁ…と、改めて思い知りながらその言葉を噛み締めました。
 今から高校野球を意識した準備を進めている富田塾生のみなさん、メッセージ本当にどうもありがとうございました! そして皆さんからのメッセージの中にもあったように、また甲子園で会いましょう!

※『中学野球小僧』1月号のご購入はコチラ!(クリック)

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ71キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-10-26

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第6回

菊地選手と菊池雄星<2>

▼<1>はこちら
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/10/post-8120.html

Yusei01_2  5カ月ぶりに生で見た菊池雄星投手の表情は、心なしか強張っているように見えました。

 10月14日。花巻東高校野球場のバックネット裏にある小屋。
 今回インタビューを担当するライターの武藤桂子さんは、中学時代から今に至るまで何度も菊池投手を取材していることもあって、交わす挨拶も自然と親しげ。
 それに続いて、僕は「5月に一度取材させていただいた、菊地と申します」と名刺を差し出しました。
 菊池投手はいかにも「覚えていますよ」という微笑をたたえて、名刺を受け取ってくれました。…と本人が書くとどうしても嘘くさくなってしまうのですが、少なくとも僕にはそう感じられたのです。

 夏の甲子園から2カ月近く。菊池投手は大人たちに翻弄され続けてきました。
 準決勝敗退後に語った「日本にやり残したことがある。でも、メジャーにも行きたい」という言葉が「でも」の前後で切り離され、翌日の新聞紙上には「雄星メジャー断念」と「雄星メジャー行き」の相反する見出しが並ぶ異常事態…。
 本人から直接言葉を聞くことができないスカウトは、菊池投手が二枚舌を使っていると勘繰ってしまったのか、「ドラフト戦略のこともあるから早く決めてほしい」と新聞を通して菊池投手にプレッシャーをかける。気持ちはわかりますが、一人の高校生が自分の進路を慎重に悩んでいるだけと考えれば、結構むごい話ですよね。
 菊池投手にしても、甲子園の人気者ゆえ外出が制限され、遊びにも行けずにストレスがたまる中、そんな話が聞こえてくれば、内心面白いはずはないでしょう。
 救いだったのは、そんなときでも菊池投手が大人だったということでした。
 人間不信に陥ってもおかしくない状況にあっても、報道陣の会見に応じて、同じような質問に答え続ける。新聞記者の人も仕事とはいえ、嫌な役回りだと思っていることでしょう。でも、菊池投手の置かれた状況というのは体験している本人しかつらさがわからない「苦行」なのだと思います。
 そして僕たちの前で、努めて普段通りに振る舞おうとしている菊池投手の表情が若干強張って見えたのは、決して僕の先入観だけではないはずです。

 無理をして時間を作ってくれた菊池投手に「今の心境は?」「進路はどうするの?」というたぐいの質問は野暮すぎました。
 それに、そんなことを聞かなくても、菊池投手は実に面白い話をしてくれる希有な高校球児なのです。
 この日も「岩手県民論」に始まり、「モチベーションの高め方」「最近思いついたアイデア練習法」「妥協が大事という話」などなど、一筋縄でいかない話題が尽きませんでした。
 そして、時間が経つにつれて菊池投手の顔の筋肉が徐々にほぐれていったように感じられました。

 取材が一通り終わり、読者プレゼント用のサインボールにペンを走らせる菊池投手を見て、僕はふと「菊地雄星サインボール」と書かれた読者ハガキを思い出しました。
 僕はムラムラと「菊地と菊池」について菊池投手と話がしたくなって、しょうもないこととは思いながらも、菊池投手に話し掛けていました。

地 「あの、『菊池』の『池』の字を間違えられることってありますか?」
池 「んー、あんまりないですね。こっちのほうは『池』が多いですからね」
地 「そうなんですか? じゃあ菊地翔太投手(一関学院)なんかは少数派?」
池 「そうだと思います。あ、この前150キロ出したらしいですよ」

 …思ったよりも(当然?)「キクチ論」は盛り上がりませんでした。
 まあ、もとから大した話ではなかったのですが、しかしそれはそれで一人の「菊地」としてシャクだったので、僕は前回のブログの冒頭で書いた、読者ハガキの話をしてみることにしました。
 あの話なら、きっと菊池投手も笑うに違いない。それには、まず「菊地選手」の企画について触れなければ…、と、僕は語り始めました。

「僕、最近、中学野球の強いチームに一日だけ体験入部するっていう企画をやっているんですけど…」

 と、ここまで言うと、なぜか菊池投手の太い眉が瞬時に眉一つぶん上に移動しました。

「えっ!!」

 それは、ここまで理知的な会話を重ねてきた菊池投手には似つかわしくない、いかにも普通の高校生がよくする「マジッすか!?」という表情でした。

「菊地選手ですか!? あの菊地選手ですか!?」

 国民的注目度を誇る「菊池選手」が超マイナーな「菊地選手」を連呼するという摩訶不思議な光景。
 いやいや、菊池さん。あなたこそ、「あのキクチ選手」ですから。というか、そもそも知ってるんだ…。
 思索が絡まってしまい、咄嗟に発する言葉がみつかりません。相変わらず重量挙げのバーベルのように突き上がっている菊池投手の眉を、ただ呆然とみつめるしかありませんでした。
 菊池投手は間違いなく今日一番体温が上がった様子で、なおも僕に問うてきました。

池 「あの『今日もヘバった~』みたいな感じでやってる菊地選手ですか?」
地 「え、本当に知ってるの? それ自体が驚きなんだけど…」
池 「はい。いや~、でも『誰かな、この人』と思っていて」

   そう言って、僕の顔と、渡した名刺に何度も視線を往復させる菊池雄星投手。名刺を渡した時点では、僕の「正体」にまるで気がつかなかったのでしょう。
 それから、僕が話す一日体験入部の裏話を興味深そうに聞き入る菊池投手の目つきは、今までの「取材者」に対するものから一変して、まるでタレントさんか何かを目の前にしているような視線に変わっていました。
 僕は内心「いやいや、そうじゃない、絶対にそうじゃないでしょ!」という叫びにも似た違和感を抱えながら、話を続けました。

Yusei02_3  そして、話が9月に取材した東海大翔洋中のメンタルトレーニングに及んだときのこと。僕がメンタルトレーニングのコーチから教わったことを訳知り顔で披露していると、菊池投手から驚きの反応がありました。

地 「今まで『緊張しないようになるにはどうすればいいんだろう?』と思ってたけど、『緊張はある程度しないとダメ』ってコーチの人に言われたんですよ」
池 「リラックスと緊張で、五分五分がいいんですよね?」
地 「え!? そ、そうそう」
池 「その状態が『ゾーン』になるんですよね」
地 「知ってるの?」
池 「いや、何かで読んだような気がします」

 先ほどまで「タレントモード」になっていた菊池投手の目が、いつの間にか本来の「強い意志」を感じさせる目に戻っていました。
 聞けば、花巻東ではメンタルトレーニングをやっていないとのこと。つまり、誰に教わるでもなく、自分で調べて得た知識だったというわけです。
 そもそも、「菊地選手」の存在を知っているということは『中学野球小僧』の読者というわけで、菊池投手のアンテナの広さには改めて脱帽して最敬礼するしかないと思わされました。

 1時間半にも及ぶロングインタビューが終了して、帰る僕たちを鎌田茂コーチとともに見送ってくれた菊池投手。
 去り際、僕に向かって

「体にお気をつけて。また次の体験も頑張ってください!」

 と、力強くエールを送ってくれました。
 僕もカズ山本ばりに「お前もな!」と返そうかと思いましたが、あまりに恐れ多くて「ありがとうございます!」と10歳年下の高校球児に頭を下げてしまいました。

 あれから11日後の10月25日。
 僕が宮崎のアイビースタジアムで高校野球の九州大会を見ていると、花巻東に行っていたライターの武藤さんから「雄星、やはり日本でした!」という速報が入りました。
 正直言って、僕は十中八九どころか、百中九十九、菊池投手はメジャーに行くんじゃないかと思っていたので、かなり意外に思いました。
 しかし、日本プロ野球の一人のファンとして、またドラフトに絡む本を作る編集者として、そして出版不況の中で雑誌の売上を気にするダーティーな「大人」としては吉報に違いありません。
 会見で涙したという菊池投手の本心はうかがい知れませんが、とにかく日本でまだ菊池投手を見られるということを率直に喜びたいと思います。
 また、甲子園での菊池投手のピッチングをテレビで見て「これほど騒がれるほどの選手か?」と感じた方は、実は結構いると思いますし、実際にそういう声も聞こえてきました。
 そんな方は、せっかく機会が残されたのですから、ぜひ、生でご覧になってみてください。
 あのピッチングフォームとボールを生で見た人なら、誰しもがその将来を想像して、ご飯を3膳、日本酒なら2合はいけるはずです。
 未開の潜在能力を存分に残しているという意味では、松坂大輔投手よりもダルビッシュ有投手の高校時代にだぶるかもしれません。
 菊池投手が真の「見ごろ」を迎えるのは、何年先になるか…。
 それが今から楽しみでなりません。そして、いずれは世界に「Kikuchi」の名前を知らしめてもらいたい。
 僕がこれから貯金して、海外旅行をしたとしましょう。そこで陽気な外国人から名前を聞かれたとき「Kikuchi!」と胸を張って答えられるような世界に変えてもらいたい。
 一人の「キクチ」として、密かに願っています。

(おわり)

※花巻東・菊池雄星投手のインタビューは11月10日発売の『野球小僧』12月号の「流しのブルペンキャッチャーの旅」(安倍昌彦さん執筆)と、11月25日発売の『別冊野球小僧 2009ドラフト総決算号』(武藤桂子さん執筆)に掲載されます。なお、次回の「野球楽屋噺」の更新日は未定です。

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ71キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-10-19

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第5回

第5回・菊地選手と菊池雄星<1>

Kikuchi01_3  今年の春から「菊地選手」という名前で、中学野球の強豪チームに一日体験入部する企画をやっています。
 これまで、星稜中(石川)、オール枚方(大阪)、HIKONE J Boy's(滋賀)、東海大翔洋中(静岡)と、名だたる4チームに体験入部してきて、何とか命拾いしながら今に至っています。

▼星稜中編
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/03/13-917b.html
▼HIKONE J Boy's編
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/07/post-e482.html

 先日、読者の方からのアンケートハガキを読んでいたら、ある中学球児が送ってくれたお便りに目が釘付けになりました。

ぼくは菊地選手の大ファンです。だから、今回は菊地選手の記事があって、すごいうれしかったです。

 こんな僕のことを応援してくれるファンがいるなんて…。
 嬉しさと戸惑いを和えたような、なんとも甘くて渋い感情に浸る間もなく、そのお便りには続きがありました。

菊地選手のサインボールを僕にください。お願いします。

 おいおい、サインボールなんてプレゼントは用意してないよ。
 しょうがねえなぁ~。サインの練習でもするかぁ。
 …と、テングになりかけた頃、読者ハガキに設けられた「希望のプレゼント」という項目に目が留まりました。
 そこにはこう書かれていました。

菊地雄星サインボール

 僕はその瞬間、この身をブラウン監督に放り投げてもらいたいほどの自己嫌悪に襲われました。

Kikuchi02_3  「菊池」と「菊地」。
 生まれつき「菊地」の当人からしてみれば、「菊池」はまるで別の姓に感じられますが、世の中はあまりそう思ってくれていないようです。「斉藤」と「斎藤」の違いくらいにしか思われていないみたいなのです。
 お便りをくれた中学球児に限らず、菊池雄星投手を「菊地」と書いてアンケートハガキを送ってくる読者の方は結構います。
 あれだけ全国区になった菊池雄星投手ですら、「菊地」に間違えられるのです。
 考えてみれば、僕の27年間の人生は「菊池」と誤記され続ける歴史でもありました。
 小学生の頃、仲良くなりかけたクラスメートの作文に「菊池君と遊びました」という記述をみつけて、「あ、まだそれほど親しくなれてないんだな」と思ったり、高校時代の監督がオーダー表にやっと「菊地」と書いたときは「あぁ、自分もようやくレギュラーになれたな…」と実感したものです。
 あるライターさんなどは、メールで「菊池様へ。お世話になっております。菊地雄星の原稿を送ります」と、あべこべの記述をするありさま。すかさず間違いを指摘すると「菊地くんのせいで混乱した」と、あらぬ言いがかりを付けられてしまいました。
 かくいう僕も菊池雄星投手の出現以来、パソコンで「菊池」を打ち出す回数が爆発的に増え、最近は自分の名前を打ち込むときですら、「菊池」が一発目の変換候補に出てきます。思わず自分のPCを「薄情な奴め!」と罵りそうになったものです。

 さてさて、長ったらしく「キクチ論争」を展開してきましたが、実はここまでは前置きでございます。
 去る10月14日、僕たち『野球小僧』は花巻東・菊池雄星投手の単独インタビューに成功しました。
 ご存知のように、菊池雄星投手は10月16日からNPBとMLBの「20球団詣で」にあっています。15日には岩手県県民栄誉賞の授賞式があったため、進路決定前の取材は『野球小僧』が最後。菊池雄星投手本人、周囲を巻き込んだ慌ただしい日程の中、スケジュールを組んでくださった花巻東高校には、ただひたすら感謝するしかありません。
 さて、スカウトと会う前の菊池雄星投手と『野球小僧』の「面談」。果たしてどんな様子だったのかは、次回に詳しく書かせていただきます。みなさんにとってはどうでもいいかもしれませんが、意外な「キクチ対談」もあり、個人的にはものすごく充実したインタビューでした。どうぞお楽しみに!

(つづく)

※次回は来週10月26日(月)に更新する予定です! ちなみに、花巻東・菊池雄星投手のインタビューは11月10日発売の『野球小僧』12月号の「流しのブルペンキャッチャーの旅」と、11月25日発売の『別冊野球小僧 2009ドラフト総決算号』に掲載されます。

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ71キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-09-28

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第4回

※バックナンバーはコチラ!
岩隈と対戦できなかった男<1>http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-a2af.html
岩隈と対戦できなかった男<2>http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-31fd.html
岩隈と対戦できなかった男<3>http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-33dd.html

第4回・岩隈と対戦できなかった男<4>

Iwakuma04001_7 「あの~、ものすごく私事なんですが、実は僕、岩隈投手と同じ西東京で高校野球をやってまして…」
 大きな瞳をこちらに向ける岩隈投手。僕は続けます。
「最後の夏は、岩隈さんの堀越に負けたんですよ」
 岩隈投手の瞳がさらに大きく見開かれ、口許は若干引きつっていきました。僕は、申し訳なく思いながら…
「といっても、岩隈さんは投げなかったんですけどね」
 と続けました。岩隈投手は半分驚き、半分笑っているような表情で僕をみつめ、少しの沈黙の後、半開きになっていた口から言葉を発しました。

岩「じゃあ同学年?」
菊「はい、そうなんです」
岩「へー。じゃあ中学はシニアか何かでやってたの?」

 いきなり僕の中学時代について突っ込まれたのには狼狽しましたが、それ以上に、それまで丁寧な口調で応対していた岩隈投手が、いつの間にか「同級生モード」のタメ口になっていたことのほうが驚きました。

菊「いや、中学は普通に学校で、軟式です」
岩「あー、じゃあ、部活だ」
菊「はい」
岩「高校は?」
菊「あ、中大付属という…」
岩「中大付属…。最後の夏というと、ニッツル(日大鶴ヶ丘)戦の後とか?」
菊「そうです! 堀越は3回戦でニッツルとやって、4回戦はウチ、5回戦は菅生(東海大菅生)で。ちょうどウチが強豪の谷間みたいになってまして…」
岩「球場は…、立川?」
菊「そうです」
岩「あー、ハイハイ。じゃ、ボクが投げなくて、Y(当時の堀越の2番手投手)が1日投げた試合だ」
菊「そうです、そうです!」

 もう無我夢中という言葉でしか言い表せない言葉のやり取りでした。
 僕がこうしてやっているのは、岩隈投手に「対戦していない男」についての記憶を呼び覚まそうという五里霧中の試みです。それでも、うっすらと視界が晴れていくように岩隈投手の記憶に彩りが戻っていくのを感じて、取材ということを忘れて、興奮を抑えることができませんでした。
 そんなやり取りが交わされる中、岩隈投手は屈託なく笑い、そして冗談っぽく言いました。

「ということは、堀越が中大付属をナメていたという…」

Iwakuma04002_2  うぉう、それを本人の前で言うか!?
 …といっても、憤りの感情はまるで生まれず、お互いに笑うだけ。むしろはっきりと言って、笑いに変えてくれたことがありがたかったです。

菊「でも、当時はY投手と2本柱みたいな感じでしたよね」
岩「そうそう、そうですね」
菊「でも僕ら、岩隈さんを打つために、試合前日にマシンを前に出して打ったりして、すごく対策を練ったんですよ」

 すると、岩隈投手は手を叩いて「ハッハッハッ!」と爆笑しました。
 インタビュー開始からここまで、終始頬杖をついたりして、マウンド同様に落ち着いた雰囲気だった岩隈投手が初めて見せる、陽気な反応でした。僕の中で、岩隈投手の快活なひと笑い、ひと笑いが、「取材対象の岩隈久志」から、「同級生の岩隈久志」へシフトしていいんだよ、という許可のように感じられてきました。

岩「そうかあ~、そしたらボクが投げなかった」
菊「そう、だからみんなで『オイ、岩隈投げねえのかよ!』って。弱い僕らが悪いんですけど」

 セリフめかした言葉の中とはいえ、さり気なく、その実、恐る恐る「岩隈」と呼び捨てにしてみたものの、岩隈投手の表情は、相変わらず緩みっぱなしで、僕はすっかり安心しました。
 僕は、10年前の堀越戦の前日、陽の落ちかけたグラウンドで、コーチの「岩隈は打てるぞ!」という檄に乗せられるように、バッティングマシンを打ち込んだ光景を思い出していました。次の日に打つことはおろか、対決することすらできなかった岩隈投手が、今こうして、同級生の岩隈久志として相対しているという事実は、相変わらず不思議な感覚でした。

岩「いやぁ~、なつかしいなあ」
菊「はい。僕も今日は10年分の恨み言を言えて良かったです」

 そう言うと、岩隈投手は本日2度目の爆笑。先ほどよりも手を叩く動作が大きくなって、僕は心の中で「ああ、落語研究会にいて本当に良かった」と思いました。
 しかし、ここまではただ単に僕の思い出話をしただけのこと。僕には岩隈投手に直接伝えたいことがあるはずだ、と体が感じた瞬間、もう口が開いていました。

「でもホント、岩隈さんは僕ら同じ年に西東京でプレーしていた者にとっては、誇りなんです」

 すると、それまで相好を崩していた岩隈投手の顔つきが少し引き締まったように見えました。そして、真っ直ぐに僕を見据え、落ち着いた口調を取り戻して答えました。

「いやいや…。でも、頑張っていかなきゃいけないですね。河内もいるし」

 「河内」とは、広島の河内貴哉投手のこと。
 國學院久我山高校では「高校ナンバーワン左腕」の評価で、3球団が競合したドラフト会議では、クジを引き当てた広島の達川監督がタバコの「ラッキーストライク」を掲げたことで知られています。
 近年は故障で思うように投げられていませんが、1999年の時点で僕たちの学年は「河内世代」と括られても申し分ない存在だったことは間違いありません。その河内投手の名前が岩隈投手の口から出てきたことは、両者の凄さを遠目ながらも目撃している者にしてみれば、大いに嬉しく感じられました。
 取材時間のリミットが迫っていたため、僕はここで話を打ち切り、岩隈投手に持ってきたお土産の「野球小僧うちわ」を2枚、そして「幸運の魔球」と呼ばれる「小僧ボール」を「奥様やお子様(2人)にも…」と、4つ手渡しました。そして最後に「写真、いいですか?」とお願いして、咄嗟にライターの武藤さんをカメラマンに仕立てて、ツーショットを撮影させてもらいました。
 気の利いたポーズなど何も思い浮かばなかったので、とりあえず「握手いいですか?」と、岩隈投手の手を握らせてもらいました。
Iwakuma04003_2  岩隈投手の指と手のひらは想像以上に皮が厚く、ゴツゴツしていました。回転量の多いストレートや変化球を爪弾く繊細なイメージからはほど遠い、逞しさを帯びた質感でした(でも、あとで写真を見返してみたら、背の高さは岩隈投手が圧倒しているのに、頭の大きさは僕のほうが勝っているということに軽いショックを覚えました…)。

「いやー、思った以上に盛り上がりましたね」
 応接室を出て、笑顔の武藤さんから声を掛けられたとき、僕は極度の安堵感から、完全に呆けていました。しかし、10分、20分と時間が経ち、平静を取り戻していくごとに、徐々に自分の背筋が伸びていくように感じられました。
 この出来事を「10年分の胸のつかえが下りた」という結論で締められれば収まりがいいのはわかっています。でも、僕がその日漠然と思っていたのは「これからもっと頑張らなきゃ」ということ。今日、岩隈投手と僕は10年前のような「高校球児」としての関係性ではなく、「取材する者とされる者」という関係でした。今後、さらに10年が経ち、岩隈投手が引退して20年、30年が経過したとき、僕が岩隈投手を「同じ西東京の球児」として変わらず誇りに思うように、岩隈投手にも「あのとき取材された男」として僕を少しでも覚えていてもらいたい、あわよくば誇りに思ってもらいたい。そんな不遜な考えがよぎっていました。現実にそんな関係性になるには、どうすればいいのか。それが今後の僕の人生の命題になっていくのでしょう。
 岩隈投手にはこれからも日本を代表する投手として、1年でも長く投げ続けてもらいたいと思います。そして今回『中学野球小僧』で取り上げる記事でも、僕との思い出話でも、プレゼントした「小僧ボール」でも、とにかく何でもいい。可能であれば、岩隈投手が投げ続けられる要因に、僕の存在が1ミリでも貢献したい。それが、「対戦できなかった男」としての、ささやかな望みなのです。

(おわり)

※岩隈投手のインタビューは10月10日発売の『中学野球小僧』11月号に掲載されます。どうぞお楽しみに! ちなみに、次回の「野球楽屋噺」の更新日は未定です

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ70キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-09-21

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第3回

※バックナンバーはコチラ!
岩隈と対戦できなかった男<1>http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-a2af.html
岩隈と対戦できなかった男<2>http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-31fd.html

第3回・岩隈と対戦できなかった男<3>

 生まれて初めてKスタ宮城にやって来ました。スタンド、グラウンドを通してクリムゾンレッドと鮮やかな緑を基調とした配色の対比が何となく艶っぽく感じられて、地方球場にありがちな「寂れ」とは縁遠い球場でした。
Iwakuma03001   三塁側ベンチ前に楽天の広報の方を訪ねると「岩隈は今キャッチボールをしてます。取材は練習が終わってから、応接室でやりましょう」とのこと。センター方向を見ると、確かに岩隈投手が軽いキャッチボールをしていました。写真はスタンドから撮影してもいいということだったので、僕とライターの武藤さんは内野スタンドづたいにバックスクリーン方向へ進み、岩隈投手に近づいていきました。
 スタンドから一眼レフを通して見る岩隈投手は、やはり絵になる投手だなぁと思いました。2日前に完投勝利を収めたばかりで軽い調整のキャッチボールとはいえ、両腕を高く掲げるワインドアップ、軸足に体重を乗せる立ち姿、天性としかいいようのないヒジのしなり、相手からの返球をグラブを差し出して待つ姿、所作がいちいち美しいのです。ピーンと背筋の伸びた美しい立ち居振る舞いに、レンズが五寸釘で貫かれたように岩隈投手から離せなくなりました。
 しばらくスタンド最前列の金網越しに写真を撮影していると、ふとキャッチボールをしている岩隈投手の背後に「楽天市場」のフェンス広告が重なる瞬間がありました。それは岩隈投手が文字通り「楽天」を背負っているようにも見えましたし、「楽天」が背後霊のように岩隈投手にまとわりついているようにも見えました。フェンス広告を背にしながら勇ましく投球する姿は、「エースなんだなぁ」ということを今さらながら実感させるものでした。目の前の金網に隔てられ、スタンドの高い位置から見る岩隈投手はあまりにも遠すぎて、かつては同じ西東京の高校球児だったということすら現実感が薄れてしまいました。

 キャッチボールを終えた岩隈投手は、バックスクリーン手前のスペースでストレッチをしながら他の投手たちと談笑していました。僕はその姿を撮影しながら、もう一人の敵と戦わなくてはなりませんでした。その敵とは、「リンデン」です。
Iwakuma03002_2  ちょうどそのとき、グラウンドではフリーバッティングの真っ最中。バックスクリーン左のスタンドから岩隈投手にフォーカスを合わせている僕のところへ、バッティング練習中のリンデンがポンポンと打ち込んでくるのです。僕は「あぶなーい!」と声を掛けてくれる楽天関係者の方の声に合わせて左に避け、右に避け、打球をなんとかかわしていきました。それにしても、左打者がここまで何本も飛ばすのは並大抵の力ではありません。あまり一発のイメージのなかったリンデンが、実はすごい打者なのだということを身を持って知ることができたのは収穫でした。

 いよいよ取材開始時間が近づいてきました。
 僕と武藤さんは練習を終えた岩隈投手を追って三塁側ベンチ前に移動して、広報の方からの指示を待つことにしました。すると、ほどなくして広報の方から「すみません、これからバッテリーミーティングがあるので、それが終わってからでお願いします」と言われました。「楽天のバッテリーミーティング」というと、きっと長いんだろうなぁ…という気がしてきます。全員が「ノムラの考え」を携えて、相手打者一人一人の攻略法をみっちりと叩き込まれるんじゃないか。となると、最低1時間はかかるのでは…。そんな悪いイメージが頭をよぎりました。しかし、意外にも15分後には広報の方から「取材の準備ができました。応接室までお越しください」との連絡が。僕と武藤さんは、急いで球場に併設された建物にある応接室に向かいました。
 応接室に入ると、カメラを組み立てたり見本誌を取り出したり、慌ただしくインタビューの準備をしたものの、心の準備をするまでの時間と余裕はありませんでした。ほどなくして、広報の方が応接室に入ってきて「岩隈を連れてきました」と告げ、明らかに常人離れしたプロポーションの岩隈投手が続いて入ってきました。岩隈投手は白地で胸に「BASE BALL」と文字の入ったナイキのTシャツと、背番号21が入ったえんじ色のハーフパンツを身に纏い、いかにもリラックスした練習後らしいいでたちでした。
Iwakuma03003  僕は岩隈投手を見るなり、「こんにちは! よろしくお願いします!」と挨拶して腰を折り畳みました。岩隈投手も「岩隈です」と会釈を返してくれました。やっと出会うところまで辿り着けた…。それでも、キャッチボールを撮影しているときから感じていたのですが、もう僕の中で目の前にいるこのモデルのような男性は「同級生の岩隈」ではなく、「あ、WBCで投げてた人だ」という感覚になっていました。

 取材はスムーズに進みました。岩隈投手は『中学野球小僧』の見本誌を手に取り、ページをめくりながら「野球小僧って中学も出してるんですか?」と関心を示しました。そして武藤さんの質問に対して、「中学時代のことはあんまり覚えてないなぁ」と苦笑しながら、遠い記憶を懸命に手繰り寄せては答えを返してくれました。左手を顎にやりながら、時には頬杖をつくようにして思案する岩隈投手の表情をカメラに収めていると、ふつふつと込み上げてくる思いがありました。
「あ、このWBCで投げてた人、オダギリジョーに似てる!」
 そう思った瞬間、せっかくこんなにも近くにいる岩隈投手が、さらに遠く感じられてしまうのでした。
 取材時間は30分。岩隈投手のルーツを探るための時間は、嘘のように急速に過ぎていきます。25分が過ぎ、そろそろ終わりかな…、という雰囲気になった頃。僕の中で突然「このままでいいのか?」という問い掛けが、ハンマーで心臓を叩かれるように胸に響きました。「岩隈投手と対戦できなかった」という、なんてことのない、つまらない話ではあるものの、本人と会えるのは今日が最後という可能性が高いわけです。ならば、ほんの少しでも、この「オダギリジョーに似てるWBCで投げてた人」に時間を割いてもらってもいいのではないか…。
 インタビュー時間、残りわずか数分。質問を終えた武藤さんがこちらを向いて「あとは大丈夫ですか?」と訊いてくれました。僕はためらいをわずかに残しながらも、岩隈投手に向かって口を開きました。

「あの~、ものすごく私事なんですが、実は僕、岩隈投手と同じ西東京で野球をやってまして…」

 岩隈投手の大きな瞳が、こちらに注がれていきました。

(つづく)

※次回は来週9月28日(月)に更新する予定です!

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ70キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-09-15

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」第2回

 先週より始まった、編集部員・菊地の「野球楽屋噺(がくやばなし)」。第1回のラストで毎週木曜日の「『中学野球小僧』の取材日誌」の枠で不定期に更新すると予告しましたが、本人から「あと3回は続いてしまいそう」という申し出を受け、単独記事として独立することにしました! 今後は「岩隈投手」に関する記事を1週間に1回ペースで更新していきます。

※第1回を見ていない方はまずコチラ!
岩隈と対戦できなかった男<1>
http://kozo.weblogs.jp/kozo/2009/09/post-a2af.html

第2回・岩隈と対戦できなかった男<2>

 東京よりもいくらか秋めいてきた仙台駅に長袖のシャツを羽織って降り立った僕は、「きすけ」の牛タンには目もくれず、東口駐車場に向かいました。仙台在住のライター、武藤桂子さんが車で迎えに来てくれていたのです。
Iwakuma02001  武藤さんとは、『高校野球小僧』で花巻東・菊池雄星投手に「読書」についてのインタビューをして以来のタッグ。あの時は菊池投手のおかげで、細胞の内側から震えるようなインタビューができました。このことも、いずれ別の機会で書きたいと思います。
 さて、今回の岩隈久志投手のインタビュー、すでに前日までに簡単な打ち合わせは済ませていましたが、改めて今回の取材主旨を車の中でおさらいしておきました。

【岩隈久志投手(楽天)取材主旨】
▼中学野球小僧11月号(10月10日発売)に掲載
▼東大和シニア時代のエピソード・練習法がメインテーマ
▼岩隈投手の代名詞「しなやかさ」のルーツを探る
▼高校野球に入るまでの準備や入学後の苦労について聞く
▼アマ時代にやっておいて良かったと実感することとは?

 もちろん、上記のことに興味はありますが、僕個人としては何といっても「1999年の夏について触れたい」という願望がありました。
 しかし、取材が決まってから、僕の頭の中で常にとぐろを巻いていたのが「何と切り出せばいいのか…」という思い。仮に僕と岩隈投手が高校時代に対戦できていたとしても、岩隈投手が難物だったとしたら、「それで?」と言われてそれでおしまいです。ましてや「高校時代にチーム同士が当たったけど、対戦すらできなかった」なんて話、岩隈投手にしてみれば、面白くもなんともない話ですよね。僕もまったく知らない人から、したり顔で「この前『中学野球小僧』買いましたよ。『菊地選手』の記事は読んでないですけどね」と言われても、「ハ、ハァ…」と返すしかありません。
 僕は、「なんと言われたら傷つくか」という岩隈投手のリアクションを想像してみました。

岩隈投手に「対戦できなかった話」をしたとき
傷つくリアクションランキング

Iwakuma02002 1位 「それで?
ぐうの音も出ない一言
2位 「へー、そうなんですか
表情を変えずに言われたら死にたくなる
3位 「え、でも対戦してないんでしょ?
ある意味「それで?」と同義
4位 「それ言うためにわざわざ来たんですか?
はい、今すぐ荷物まとめて帰ります
5位 「
無言。それとも無視? 無視だとしたら1位かも
6位 「かわいそうに
頼むから同情だけはして欲しくない
7位 「そんな学校と当たったっけ?
学校の存在すら否定されるとは
8位 「で、オチは?
落語研究会にいたことすら無に帰する無情な一言
9位 「久志だけに『久しぶり』ってとこかな
立場を忘れてイラッときそう
10位 「帰ってくれ!
何かトラウマでもあるのか? と逆に勘繰りたくなる

 なんだか7位以内は、どれも言われそうな気がしてきます…。考えあぐねたあげく、試しに運転中の武藤さんに向かって「僕、高校3年の夏に岩隈のいた堀越に負けてるんですよ。岩隈は投げなかったけど」と言ってみました。
 すると、武藤さんは前方を見据えたまま「へー、そうなんですか」と、答えました。僕はその瞬間、「東京に帰ろうか」と思いました。

(つづく)

※次回は来週21日(月)に更新する予定です!

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ70キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

2009-09-10

編集部員・菊地高弘の「野球楽屋噺」

 突然ですが、今日から編集部員の新連載コーナーがスタートします。担当するのは『中学野球小僧』誌面で「菊地選手」として登場する菊地高弘編集部員。取材・企画の舞台裏を「楽屋噺(がくやばなし)」としてお伝えしていきます。第1回はちょっと長いですが、本人曰く「僕の野球人生すべてを込めた」という入魂の手記ですので、自己紹介代わりにお楽しみください!

第1回・岩隈と対戦できなかった男<1>

 脚がガタガタと揺れる小さな円卓で、いつものように簡単な打ち合わせが開かれたときのこと。「中学野球小僧のミポリン」と呼ばれる先輩が「キクリン、岩隈の取材申請よろしくね」という指令を出しました。

Iwakuma0101  「岩隈」とは、当然、東北楽天ゴールデンイーグルスのエース・岩隈久志投手のことです。
 岩隈投手と僕には、「深からぬ」因縁がありました。
 「深からぬ」と書いたのには、深い理由があるのです。今日は、そのお話をさせていただいてもよろしいでしょうか。

 今からちょうど10年前の1999年、僕は東京の名もない高校の球児でした。
 3年最後の夏、初戦となる2回戦を15対0の5回コールド、3回戦を7対2と順調に勝ち上がった僕らは、4回戦でシード校の堀越高校と対戦しました。そのエースは「岩隈久志」という、プロ注目の投手でした。

 初めて岩隈投手を見たのは、3年春の練習試合のときだったと記憶しています。
 当時の岩隈投手は、「長身痩躯」という言葉では足りないくらい、信じられないほどにガリッガリでした。
 試合前ノックでサードのポジションについた岩隈投手は、その体型から一際目に付き、そしてムチよりもしなる腕の振りから、恐ろしい送球を放っていました。他の選手の送球ははっきりとボールの「円」が見えるのに、岩隈投手だけ楕円形のボールを使っているんじゃないかと思うくらい、ボールの原型が見えなかったのです。マウンドから全力投球したら、一体どんな形になってしまうんだろうと戦慄しました。
 その練習試合では登板はおろか、試合出場すらなかった岩隈投手。その時はまさか、最後の夏に堀越と戦うとは思いもしませんでした。

 逃れられない暑さに覆われた7月の立川市民球場。ライトのポジションで芝生から立ち上る異常な熱気にひたすら蒸らされ、なかなか終わらない相手方の攻撃に文字通り業を煮やして、「早く試合が終わらないかな」という想念が一瞬よぎってしまったことを覚えています。
 そう思った時点で負けなのでしょうが、それも無理のない暑さだったのです。今もナメクジに塩を振るたびに、あの夏の暑さを思い出します。

 1対11。5回コールドで、僕の最後の夏は終わりました。
 そのマウンドに、最後まで岩隈久志が立つことはありませんでした。
 2番手の投手に投げ切られてしまったのです。

 曲がりなりにも「例のマンモス球場」を毎日思い浮かべながら2年半を過ごしてきた僕らにとって、「エースの投げない相手にコールド負け」という事実は、あまりに容赦のない現実でした。
 試合終了後、3年生20人全員で寄った立川のデニーズで、禁止されていた炭酸飲料を飲みながら、僕らは負ったばかりの痛手を忘れるようにはしゃぎました。
 その後、20人の坊主軍団はゲームセンターへ、カラオケへと移動して、高野連が知ったら顔をしかめるくらい、バカ騒ぎしました。僕は『別れても好きな人』を一人デュエットで歌ったという記憶があります。20人全員が「もう野球はいいわ」と思っていたんじゃないでしょうか。堀越がベスト4で負けたことは、新聞で知りました。

 野球はアウトカウントを1死、2死と、「死」という漢字で表しますが、今の岩隈久志というステータスがあるのは、岩隈投手の前に葬られた何万という「死」が折り重なるように積まれてきたからです。
 僕はその一体の屍にすらなれませんでした。岩隈投手が対戦後に「いいバッターだったな」と、「記憶」という墓標を立ててくれる可能性すらありませんでした。

Iwakuma0102  岩隈投手はプロ2年目にプロ初勝利を挙げ、日本シリーズで先発マウンドに立つまでの存在になりました。一方、その頃の僕は、大学で落語研究会に入り、高座に座っていました。
 ドラフト5位でプロ入りしながら、想像を超えるスピードでのし上がっていく岩隈投手に、僕はただただ驚かされるばかりでした。そして「俺、高校のときに岩隈と対戦したことがあるんだぜ」という、野球人にありがちな自慢をすることすらできない自分という存在の小ささを、その頃はっきりと自覚しました。

 その後、巨人のプロテストを受験したり、四国独立リーグや欽ちゃん球団のトライアウトを立て続けに受けたのも、「本当は自分も岩隈みたいになれるんじゃないか?」という確認作業だったように思えます。ちなみに入団テストは、箸にも棒にも、爪楊枝にも引っ掛からず、ことごとく落っことされました。

 あれから10年――。
 「岩隈と対戦できなかった男」が、岩隈投手に会いに行くことになりました。

(つづく)

※この連載は毎週木曜日の「『中学野球小僧』の取材日誌」の枠で不定期に更新します!

▼菊地高弘(きくち・たかひろ)
1982年1月2日生まれ。175センチ70キロ、右投左打。中大付高から中央大に進学、中大5年時にブラブラしていたところを『野球小僧』編集部に拾われる。増刊号『高校野球小僧』を担当しているため高校野球を中心に、中学からプロ、果てはカラーボール野球まで幅広く企画・取材している。中大付高時代は野球部主将を務め、中央大では落語研究会幹事長を歴任。『中学野球小僧』誌面にて、中学野球の強豪チームの練習に参加する体当たり企画「菊地選手の1日体験入部」に挑んでいる。

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